ひいいの麻雀研究  ひいいの麻雀研究

 週刊あらまあー

 あらまあーさんが刊行してる「週刊あらまあー」です。
 全バックナンバーを揃えています。
 週刊あらまあーの著作権、文責はあらまあーさんにあります。あらまあーさんの了解を得て、ここにバックナンバーを掲載しています。
 

    第2 3号:麻雀における推理について(2)

    Weekly AramaaVol.23
    {2004年度初版}
    (3月第3週号)

    メインテーマ:
    麻雀における推理について(2)

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    目次

    最初の挨拶 Byあらまあー

    あらまあーの瞬間湯沸し記:
    「週刊あらまあー3年目を迎えて」

    新春特別企画『あらまあーの下町見聞録・第3話』
    「浅草カジノ・レビュー伝説」

    閑話休題
    ゴールデンボス様おおいに語る----ボスの大会奮闘記
    ThunderVさんからの出題
    週刊あらまあー・ホームページ更新記録

    メインテーマ:麻雀における推理について(2)

    あらまあーのリアル打ち奮闘記(冬の陣・プレビュー)

    寄稿:改定版「あらまあー的トキワ荘考察」

    編集後記

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    まずはご挨拶! m(_ _)m

    一休さんといえば、かなり頓智(とんち)の利く知恵者として有名ですが、
    実はかなりの皮肉屋でもあったというエピソードがあります。
    殿様に送った新年の挨拶状に、

    『正月は 冥土(めいど)の旅への 一里塚 
    目出度くもあり めでたくもなし』

    と記し、大顰蹙(だいひんしゅく)を買ったといいます。

    つまり、
    「正月が来るたびにみんな、おめでとう、おめでとう、と言うけれど、
    実際はひとつ年をとっていくのだから、
    あの世(冥土)に一歩一歩近づいてることになる。
    おめでたいといえば、おめでたいのだが、
    めでたくないといえば、めでたくもないのである」
    という意味ですね。

    これはもちろん、
    冷静に物事をとらえたシュールでシビアな考え方、
    とも言えるでしょうが、
    お正月気分のときにこんな挨拶状を受け取れば、
    誰にしても気分がいいはずがありません。
    それでも、一理あるな、と感心してしまうところが、
    この一休さんのスゴイところでしょう。


    さて、2003年が終わりを告げ2004年がやって来ました。
    はっきり言って、過ぎた年はさほど良い年ではなかったように思えます。
    (それぞれ個人的にいい出来事があった方もいらっしゃるでしょうが、
    ここでは、世相全体を見渡した限りでは、という意味です)

    警視庁発表では、凶悪犯罪(重要犯罪)件数、殺人事件件数、
    さらには青少年犯罪件数とも過去最高に昇り、
    失業率はとうに5%を越え、
    リストラされる中高年の数も自殺件数とともに右肩上がりに上昇し、
    なにやら、「どこかおかしいぞ?日本」、
    というのが、ここ数年のキーワードであるような気もします。

    一休さんも墓の中で
    「ほ〜ら、ノウテンキに、おめでとう、ばかり言ってる場合じゃないだろ」
    (≧m≦)ぐふふぅぅ〜〜
    と密かにホクソ笑んでるかも知れません。

    しかし、こんな時代だからこそ、
    「元気」が必要なのではないか?
    と、単純ですが、あらまあーは力説したいのであります。

    12月のホムペの挨拶でも、1月のホムペの挨拶でも、
    前号のこの最初の挨拶でも、
    繰り返し繰り返し、
    あらまあーは「元気」という言葉をキーワードのように用いました。
    お気づきになりましたか?
    単細胞なおっさんと言われようが、
    ノウテンキなクソジジイ((▼▼メ) w)と呼ばれようが、
    こんな先行きの見えない閉塞感のある時代だからこそ、
    われわれ人類の持っている最大限のポジティヴなパワー「元気」を
    活用していくべきだ、と、
    いい年こいたあらまあー(w)は真剣に提唱しているのであります。

    つうことで、皆さん、元気に、・・・あくまでも元気を持って
    この息苦しい状況を
    生き抜いていきましょう!
      (* ̄0 ̄)/ オゥッ!(やや司★風 www)

    さてさて、天皇杯も駅伝も終わり、
    いよいよ街はオトソ気分から抜け出して動き始めたきょうこの頃、
    皆様はいかにお過ごしでしょうか?
    七草明けまでは絶対に仕事せんぞ!
    と言い切っていたこのあらまあーも、(爆!)
    そろそろ重い腰を上げなくてはなりません。

    2004年が、Infoseekユーザーの方々にとって、
    そしてすべてのネット・ゲーマーの人たちにとって、
    良い年であることを切に願いつつ、
    週刊あらまあー23号、スタートしましょう。

    (追記:↑は、1月7日に書いた文面です。(;^_^A アセアセ・・・)

    さて、つうことで1月に完成する予定だった『週刊23号』も
    例によって伸び伸びとなり、
    こんな時期に(爆!)今年初の配信となりました。
    節分にバレンタインという時期になっちまいました。
    (≧∇≦)ノブハハハ!!
    ま、いいかげんなあらまあーのことですから、
    なにとぞご容赦くださいませ。

    (↑2月2日に書いた文章です。w)

    とかなんとか言ってるうちに、とうに節分もバレンタインも過ぎて、
    ついに3月もなかばに入ってしまいました。
    ☆(o_ _)ノ彡☆ばんばん!
    まさか、まさかこんな時期に
    2004年初の週刊あらまあーを配信するとは
    夢にも思ってもいませんでした。
    それにしても、この1,2月の忙しかったこと。
    ったくもう、仕事がイヤになりました。
    つうことで、
    まじ、このあとに追加の挨拶文が加わらないことを祈って(爆!)
    今年最初の週刊あらまあー、スタートです。 ・。・
    (↑3月13日に書いた文章です)
    (≧m≦)

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    あらまあーの瞬間湯沸し記

    「週刊あらまあー3年目を迎えて」

    週刊あらまあーは、いよいよ3年目に突入した。
    もう何度も語ったことだが、
    『週刊あらまあー第1号』はふたつ前の正月、
    たった7,8人の親しいユーザーに向けて配信したものであり、
    そのときはまだ、
    いずれは配信先が300人を超えることなどはモチロン、
    これがホームページになるなどとは、夢にも想わなかった。
    これもひとえに、
    このあらまあーというちょとヘソ曲がりなおっさんの個人的な趣味に
    快くつき合ってくださった心優しい読者の皆さんのおかげであると、
    心から感謝の念にたえない次第である。

    週刊を発刊し始めた頃のメンバーの中には、
    シャロンさん、子哲さん、貴子さんなど、
    すでに久しくinfoseekサイトでその名を見なくなった方々が多い。
    またゆいリンさんのようにすでに我々とは幽明境を異にした方もいる。
    が、そうした人たちに替って、
    こよなく麻雀を愛しネットゲームを愛する多くのユーザーたちと
    新しく出会えたことも事実である。
    出会いがあれば別れもあるとは人生の鉄則だが、考えてみれば
    この2年で周囲の顔ぶれのなんと変わったことか。
    ネットは魅力的であり実人生の憂さを忘れさせてくれる
    貴重なスペースではあるが、
    I ゲームのように人間同士のチャットが可能な場では
    人間関係でぼろぼろになる人も出てくるのは当然である。
    老婆心ながら、そこのところをきちんとわきまえておくべきだ、
    と多くの方々に提言しておきたい。
    でないと、楽しいはずのネットゲームというスペースが
    苦痛の場ともなりかねない。

    さて、この2年間を振り返ってみれば色々なことがあった。
    Jゲーム時代に大会の開催を試み成立した牌王位戦、
    東風荘VIPサイトでの東風銀河団の面々との出会い、
    ひいいさんにバトンタッチをお願いしたことによって
    さらに飛躍・発展した牌王位戦、
    ハンゲームに移った旧GOOのメンバーのそあらさん主催の大会、
    また、サイトを眺めてみても・・・
    華々しくデビューしては消えていくメインのアイドルたち(爆!)、
    いくつかの人間関係トラブルなど、挙げればきりがないほど
    色々な出来事があった。

    そして『週刊』にしぼってみれば、やはり特筆すべきは
    去年の「週刊1周年記念・正月号」で実現した
    Jゲームプレイヤーのエッセイ集であろう。
    その発端は、私このあらまあーの書いたあるエッセイだった。

    私が週刊あらまあーに自分のエッセイを書いて載せたのは、
    もう1年半以上も前のことになる。
    最初はWEB上にリアルの自らのプライバシー事柄を持ち込むのが
    イヤだったので、何度も迷ったのだが、
    一大決意をして載せることにきめた。
    それがあの『友人の死の知らせ』である。
    このエッセイは非常に反響があり、
    何人かの人たちが感想や意見メールを送ってくれた。
    未読の方のために、いちおう以下に再録しておく。


    (あらまあー式寄稿)「友人の死の知らせ」

     高校・大学といっしょだった友人のKへ

     銀座に住むイトコのアキラから電話がはいった。
     なぜか、アキラはそのことを伝えるためだけに、その用件のためだけに、
    私に電話をしてきたのだった。

     受話器からアキラの声がその『事実』を告げた直後、
    私はなぜか頭の中が真っ白になった。
    あとはただ、うん、うん、と、生返事を繰り返すだけだった。
    ショックのためでは決してなく、失望や落胆のためでもない。
    何やら不思議な感情、
    これまで生きてきて遭遇したことのない説明のできない
    不思議な感覚の中で、
    ただぼんやりとアキラの声を聞いていたと思う。

     電話を切った後も、しばらくは何も言わず、ただぼーっと無言でONしたまま
    のパソコンの画面を見ていた。

     私の父母の実家は東京中央区の銀座3丁目、
    京橋という昔からの地名で俗称される地域だった。
    それゆえ私の本籍も東京都中央区銀座である。
     父母ともに今は統廃合のために消滅した京橋小学校の生徒であり、
    母は父の二学年下だった。
     Kは、その私の母の実家から目と鼻の先に住んでいた。

     私の進んだ都立高校でKと同じクラスになった時、
    私と彼はすぐに打ち解けて仲良しになり、
    週末は、よく彼の家に泊まりに行ったり、
    彼が私の所に来たりもした。

     やがて、Kはある大学の文芸学科に入り
    私はその大学の同じ学部の別の学科に進んだ。
     在学中から彼は、現在は廃刊となった小さな映画雑誌のコラムに
    ちょっとした文章を載せたり、
    タレント本のゴーストライターの一人として
    アルバイト感覚で文章を書いたりしていた。
     私にも文筆業を生計としたいという夢はあったものの、
    その志(こころざし)は早々と挫折し、
    まったく違う方向に進むことになった。
    当然のことのようにKと私の仲は次第に疎遠になっていった。

     そして卒業後数年で、
    Kは放送作家として
    お昼の人気バラエティー番組や深夜番組の構成を担当するようになった。
     私たちの世代では異例の出世と言えよう。
     『笑っていいとも』や『タモリ倶楽部』、『冗談画報』(今は無くなった番
    組)などの番組の最後のエンディング・ロールの「構成」のところに彼の名を発見す
    るたび、
    「あいつも頑張ってるなー」と、
    不思議と羨望や妬(ねた)みのない純粋な気持ちで
    TV画面を見つめていたのを、今でも覚えている。

     私の若き日の夢は挫折し、その夢をKは叶えた。
     私に努力が足りなかった、とか、
    運が悪かった、とか
    言ってしまえばそれまでであるが、
    ともかくもKは夢に到達した言わば『成功者』の領域にいて、
    もちろんそこは私のいるテリトリーではなかった。
     そして、決して嫉妬ややっかみの感情からではなく、
    純粋に、曇りのない気持ちで、
    私は事あるごとにこう自問自答したものである。
    -----------なぜ神は、私ではなく、Kを選んだのか?

     この疑問はおそらく、
    時代をそして世代を超越してあらゆる分野の多くの人間が
    抱いていた疑問であろう。
     ある時代の、さほど活躍もせず人々の印象にも残らず引退したプロ野球選手
    ならば、
    ------なぜ神は、私ではなく、ナガシマ・シゲオを選んだのか?
     また、いまどきのサッカー選手ならば、
    ------なぜ神は、私ではなく、ナカタやイナモトを選んだのか?
     彼氏を友人に取られた女の子ならば、
    -----なぜ神は、わたしを不幸にし、あの子を幸せにするのか?

     この世の地球上に暮らす多くの人間が、
    心の奥底の、そのまた奥の、もっと奥で、
    1度はこう自問自答したことがあるに違いない。

     そしてそれは、何度も繰り返すが、
    嫉妬とか羨望とか憎悪とかいったマイナスな感情からではなく、
    もっと純然たる澱(よど)みのない心の奥底から湧き出る、
    純白の疑問である。

     況(いわん)や、『努力が足りなかった』とか
    『運が無かった』とかいう世俗的な解答をそこに求めるのではなく、
    私たち人類が未だに肉体的にも精神的にも踏み込んだことのない領域まで進ま
    ないと発見できないのかも知れないという、
    そんな疑問である。
    -------------神はなぜ、自分ではなく、あいつを選んだのか?

     そのKの名がテレビ番組のクレジットから消えて
    久しい年月が経過していた。
     競争の激しい社会で、ぼろ雑巾のようにアイデアを搾(しぼ)り取られ、使
    えなくなったら切り捨てられ、次の者に取って替わる。
    そんな業界だから、Kはきっと一時的に第一線から退き、
    いまは充電期間なのだろう、と思っていた。
    またあるいは地方のどこかのケーブル系の小さなテレビ番組の構成でもやって
    いるんだろう、と考えたりもした。
     しかし、それらの私の考えはいずれも当たっていなかった。

     電話をくれたアキラの話では、
    Kの死因はガンだった。
    テレビのスタッフ・タイトルから名が消えて間もなく入院し、
    すぐに逝ってしまったらしい。
     その情報を何処から仕入れたのか? 
    Kは離婚したと聞いていたが家族はどうなったのか? 
    などといういくつかの疑問をアキラにぶつけることもなく、
    私は、ただ、ぼーっとして、生返事を繰り返していた。

     電話を切り、パソコンの画面を30分は無言で見つめていただろうか?

     ふとわれに返って私は、
    自分の中にほとんどと言っていいほど、悲壮感がないことに気づいた。
     決して彼の死を悼(いた)まぬわけではなく、また逆にザマアミロ的な歪
    (ゆが)んだ感情もなく、
    かと言って彼のために泣いてやるような気分もまったくなかった。
     そして不思議と、それまで長い年月のあいだ私の胸につかえていた何かがす
    うーっと消化されたような、
    安堵感(あんどかん)さえもがあった。
    不謹慎だと批判されても、
    それが偽りのまったくないその時の感覚だったのである。

     それは、今までに踏み込んだ事のない領域に------それを神の領域と呼ぶの
    ならそれでもいいが-----ほんのわずかだけ足を踏み入れて、今日まで必死に求めて
    いた疑問の答え、
    その答えの一部をかいま見たような、
    穏やかに癒(いや)されるような安堵感だった。

     胸の奥で長い間わだかまっていた疑問、
    ----神はなぜ私でなく、Kを選んだのか?-----
    という疑問が、それから私の中で変貌した。
    いや、変貌というより、ある意味で進化・発展したのか?

     -----------神はなぜ、私より先に、Kを天に召したのか?

     私がKという友人の悲報を耳にして得た安堵感、
    その安堵感の代償として、
    今後は、この疑問を引きずって生きていかなければならないのだろう。

     Kのありし日の面影を思い浮かべる時、そこには、
     秋の文化祭の夕暮れがあり、
     コンサートがあり、
     ジャズ喫茶があり、
     ビートルズやサイモン&ガーファンクルのレコードがあり、
     ジャンケンに負けたほうが先に女の子に声をかけるというナンパ遊びがあ
    り、
     互いの夢を熱く語った深夜の生徒寮があり、
     我(が)の強そうな若者の顔がある。

     私はここに
    ----『慎んで友人Kの冥福を祈ります』------
    などという定番の文句は書けない。
    そんなおざなりの言葉で彼が浮かばれるとも思わないし、
    彼の魂が浄化されるはずも昇華されるはずもない。

     私が長いあいだ抱いてきた疑問、
    そしてこれから抱いていく疑問は、
    人類のこれまでのいかなる科学力・文明力あるいは知力をもってしても、明確
    な答えを引き出せるものではないと思っている。

     宗教的な解釈や、ある種のシステム的な、
    あるいは世俗的な、その類(たぐ)いの解答はいくらでもあるだろう。
    しかし、それらのどれもが正解ではない。
    正解であるはずもない。

     なぜなら、こうした疑問---
    人間の運命や生死の本質的な根源に関わる疑問---は、
    まだ人類が足を踏み入れていない不確かな場所の『泉』から湧き上がってくる
    ような、そんな不確かな、それでいて澄みきった疑問だからだと思う。
     そして、その答えを人類が得る時期が到来したとしても、
    われわれがそれを言葉や文章や数式や符号に還元した時点で、
    その本質からは少しずれた異なるものになってしまうのかも知れない。


     パソコンの前で立ち上がって大きく伸びをし、
    空気を入れ替えようと窓を開けた。
     ぱらぱらと音がして、湿(しめ)った曇り空から重い雨が落ちてきた。

                       (了)


    かなり重い内容の文章であることは自認している。
    またこのエッセイが従来のウェブ上のあらまあーというキャラクターと
    イメージが一致しないこともじゅうぶん理解している。
    しかし誰がなんと言おうとも、
    書き上げた後の充実感というか爽快感には格別なものがあった。
    言いたいこと書きたいこと、つまり自身の本音を
    紙上にさらけ出すことによって、
    大袈裟な表現になるが、何か浄化していく自分を感じたのである。

    そして、この爽快感を他のユーザーと共有できないものか?
    と考え始めたのが、そも『プレイヤーズ・エッセイ集』の
    取っ掛かりの動機であった。
    きっと自分の意見や考え方を文章表現してみたいという人々は
    ほかにもいるはずだ。そう思った。

    ちょうどその頃、Melissaさんの「オレゴン通信」が終了し、
    それと入れ替えるかのようにRENさんの「おじさんバンド・・・」
    が始まっていた。
    これら連載のあったおかげで、多くのプレイヤーたちに
    「あなたも週刊にエッセイを書いてくれませんか?」
    と声をかけやすかったことも事実である。

    この場を借りて、MelissaさんREN(ジロー♪)さんには
    謝辞を述べておきたい。

    RENさんの「おじさんバンド奮闘記」は、『週刊』に、それまでなかった
    新しい彩(いろど)りを加えてくれたような感じがして、
    すごく新鮮な思いで毎回原稿を読ませていただいた記憶がある。
    ホントウにどうもありがとうございました、RENさん。
    機会があればまたよろしくお願いします。

    そして、メリッサさん。メリッサさんには『週刊』のいちばん苦しい時期を
    支えていただいたような気がして感謝の気持ちにたえません。
    「オレゴン通信」は隠れファンが多くいて、1回休載すると、
    「メリッサ通信はどうしたんですか?毎回楽しみにしてるのに」
    という叱咤のメールを頂戴したこともあります。
    メリッサさん特有の表現は誰にも真似のできないモノでした。
    日本とは「8時間」という時差の困難を越えて送られてきた原稿は
    毎回興味のあるエピソードがぎっしり詰まっていましたね。
    ひとつひとつが今でも大切な思い出です。
    本当にありがとう。

    こうして、あらまあーの中では、
    「ゲームプレイヤーたちの人となりを知ることのできるエッセイ集」
    の実現が、しだいしだいに膨らんでいった。

    しかしモチロン、多くのゲームプレイヤーたちに声をかけて
    エッセイを書いてもらう、というのは、
    そんなに簡単なことではない。
    当然、膨大な時間と労力を覚悟しなければならなかった。
    それでもなんとか、あちこちに声をかけて出来上がったのが、
    ちょうど去年の「正月特別号・Jプレイヤーズエッセイ集」であった。

    正直、思ったよりレベルの高いエッセイ集が出来上がった、
    と今でも自負している。
    各プレイヤーの、麻雀以外のプライバシーの部分が、
    その人となりが、よくわかるエッセイ集が完成したのである。
    これは『週刊あらまあー』という存在がなければ
    絶対に実現しなかった企画である。
    手前味噌ではあるが、今でも誇りに思えるイベントであった、と思う。

    この「プレイヤーズエッセイ集」から数々の名作が誕生した。

    nabaさんの『部屋と麻雀と私』は、
    彼が若年時代からいかに麻雀に関わりいかに麻雀を愛してきたか
    如実にわかる作品である。

    kirara☆さんの『摩訶不思議きらら天然日記』では、
    彼女がいかに心優しい女の子であるかが、文章から伝わってくる。
    とくに作品の最後に彼女が書いてくれたコメント----
    「このエッセイを書くことによって自分が浄化されたような気がする」
    とは、まさに率直な実感であろう。

    そしてLOTO.6さんの『酒と女と借金と』は、まさに抱腹絶倒!
    彼の人生失敗談には「寅さんシリーズ」に相通じるものがあり、
    ペーソスさえも感じられる逸品となった。
    彼がなぜ「發」という牌がキライなのかがよくわかる。(爆!)

    また、ひいいさんの『電車・駅での思い出深い三景』においては、
    ひいいさんの持つ鋭い観察眼と独特のユーモア感覚を駆使して、
    読む者をじわじわとこみ上げる笑いの世界に誘(いざな)ってくれる。
    彼独特のテンポとリズムによる語り口は、
    やはり他者には真似のできないものがあり、
    それが特徴となっている稀有の作品である。

    ユーモラスという点では『ひとみqueenの華麗なる職歴』も
    かなり笑わせてくれる作品であった。
    ひとみさん独特のモノの見方や個性が
    文章に溢れている作品であろう。
    彼女は2作品『週刊』に寄せてくれたが、
    どちらも明るいユーモラスな作品で、読後の爽快感のあるものである。

    そして何よりもハラを抱えて笑えたのがkisibojinさんの
    『楽しい入院生活のすすめ』である。
    彼独特の人間観で、「オトコの情けない入院生活」
    を叙述したこの作品は、ところどころに頷ける部分があり、
    情けないやらおかしいやら、という、ケッサクな話になっている。
    キシボンの人間味がストレートに出た作品であろう。

    さらには、群龍さんの『俺と同世代のすごいやつ』!
    この作品では、彼のキヨハラに対する思い入れがとてもよくわかる。
    彼はこのエッセイが2作目だが、
    第1作の競馬と自分のペットに関する話と同様、
    いつも彼の作品は、読む者にストレートに伝わってくる。
    書く人間に熱いハートがあるから、
    その思いは読む者に伝わるのだ、と思う。


    ミーコさんの『我輩は黒ネコである』も、
    期待を裏切らない一品であった。
    夏目漱石風に飼い猫の目から見た人間社会の日常の様子を、
    ネコの名を借りてミーコさん自身が、
    的確にかつ愛情をこめて叙述している。
    ほのぼのと心温まる作品であった。

    mequmi444さんは最初「わたしは文章が苦手で・・・」
    とお断わりになられたのだが、それ以後考え直したらしく、
    エッセイを書くことを快諾してくださった。
    彼女の描いた日常空間は、とても新鮮で、心優しいものであり、
    この『花子』は、プレイヤーズエッセイ集の中でも、
    あらまあー的にはかなり気に入っている作品のひとつである。
    全編に流れる初々しさ、懸命さは、
    読む者の気持ちを癒(いや)してくれる。佳作である。

    buffさんの『Basuketball Diaries』は、
    ほかのプレイヤーになかった
    「自身の体験したスポーツ」を題材にしたものだった。
    自分が経験したバスケ・チーム時代の話、
    彼がバスケットボールにしだいに惹かれていく状況を
    的確に如実に語った
    いわば「青春の1ページ日記」である。
    この作品も、あらまあーはすがすがしさを感じた。
    好きな作品である。

    そして何よりも「珠玉の一編」という名に恥じない作品は、
    あい1112さんの『コエヲキカセテ』であろう。
    この作品においてあいさんは自分を率直にさらけ出し、
    読む者に感動を与えた。
    彼女のこの作品は、
    彼女の青春日記であり、
    彼女の恋愛私小説であり、
    誰もが通り過ぎる切ない青春のヒトコマである。
    そして何よりも彼女自身の宝石のような思い出である。
    この作品が読む者の胸にキュンとくるのは、
    彼女が見栄をはらずに等身大の自分自身を率直に表現したからであり、
    自己の弱い部分も隠さずに叙述したからである。
    エッセイ集というイベントをおこなった甲斐があったなぁ、
    と正直思えた逸品であった。

    これらエッセイ集は現在「週刊あらまあー」のHPの
    「あらまあー言いたい放題」の日記帳に収録してある。
    今後もどなたかの素晴らしいエッセイを読めたら、
    と思っている今日このごろのあらまあーである。


    さて、最初に書いたように、『週刊』も3年目に突入した。
    いつまで続くかわからないが(爆!)、できる限りの力と根性で、
    そして持ち前の(空?)元気を駆使して、
    今後も週刊あらまあーを刊行し続けようと思っている。
    最後に前述のあい1112さんのエッセイを再録し、
    これまで支持してくださってきた読者の皆さんに対する
    御礼の言葉に替えたい。


     コエヲキカセテ   あい1112


    この詩はSAKURAというアーティストのものである。

    大学2年生の時に知り合った、かっちゃんとの思い出深い曲である。

    ひょんなことで、それまで二人きりで遊んだことのなかった私達が、
    夜ビリヤードをすることになり、
    内心凄くドキドキしながらかっちゃんの迎えをまった。

    一昨年の10月のことだ。

    車で私の家に迎えにきたかっちゃんは私が助手席に座るなり、
    「この曲いいと思わん?」
    といってラジオの曲に聞き入っていた。

    SAKURAの「コエヲキカセテ」である。

    私も前ラジオで聞いていいなって思った曲だったので、
    ふたりで口ずさみながらビリヤード場へ向かった。

    その日、ビリヤードを朝の4時までして、車の中でいろんな話をした。
    自分の考えている将来のこと、恋愛のこといろいろ。

    家に帰って、布団に入っても眠れない。
    ずっとかっちゃんのことばかり考えてしまっている。

    何も考えてないうすっぺらな人だと思っていたのに、話したら全然違う。
    なかなかいい男なのに鼻にかけてなく、女慣れしてなくて、照れ屋さんなところが、
    またいい。
    そして何より、かっこいいのにかっこ悪い。

    そんなかっちゃんにたったその一日でべたぼれしてしまったのである。


    それ以来、二人で遊ぶことが多くなった。
    もちろん、車の中では「コエヲキカセテ」を聞きながら。

    ビリヤードにいったり、海にいったり、映画にいったり、日帰り温泉にいったり…。
    手をつないで歩くことさえあった。

    かっちゃんに彼女がいることはわかっていたし、
    どうにかなりたいなんて思ってもなかったけど、
    仲良くなってくると人間って欲が出るのか、
    友達以上の関係になりたいって思ってきた。

    この仲良しの関係が崩れるのも嫌だしって思ったけど、
    我慢ができなくなって

    「私ねー、かっちゃんのことすきっちゃんね。」

    っていってしまったのだ。

    するとかっちゃんは、凄く大きな声で笑っていた。

    しばらく沈黙が続いた後、真顔になって

    「今はつき合えない。彼女いるし、もう少し気持ちの整理させて。」
    といった。

    わかっていた答えだったにしろ、つらかったけど、
    気持ちを伝えずにはいられなかった。

    このことがあって、かっちゃんに会うのが恐くなった。
    だけど、仲良しはかわらぬままだったので安心した。

    いつか、いつかでいいから
    それまで待とうって思った。


    4月になった。

    仲良しは親友とよべるほど深まっていき、
    更に、9月の大学院入試へむけて一緒に勉強することになった。

    私は心理学、かっちゃんは建築学。

    毎日朝から晩まで一緒にいた。
    遊びたい気持ちを我慢して必死に勉強した。
    第一志望は一緒。
    かっちゃんは志望校と別に九州内の国立大学をもう一つうけることになった。



    9月1日のことだった。
    今でも覚えている。
    なぜなら9月2日が大学院の入試日だったからだ。
    かっちゃんから電話がきて
    「あー、○○ですけど」
    とこんな調子。いつもだったら
    「あ、俺」
    なのに、変だなって思った私は彼女といることがわかった。
    「彼女が…」
    とかっちゃんが言った瞬間、ごそごそと音がして

    「ねー、人の男とってどういうつもり?」

    女の人の声だった。
    凄く恐かった。

    「とるって、別にとってないですよ、私彼氏いるし」
    と嘘をついた私に、彼女は

    「毎日会ってるんでしょ?私会えないのになんであんたが会えるのよ!」

    すごい剣幕だ。
    横でかっちゃんが怒鳴っている。

    その時、自分が言われたことなんかよりも、
    かっちゃんに迷惑をかけてしまったことが凄くつらくって、

    「もう、電話しませんから、会いませんから。」
    と彼女にいった。

    それで彼女はおとなしくなり、電話をぷちんと切られてしまった。


    あっけにとられ涙がぼろぼろでてきた。

    明日はお互い試験だというのに、
    私のせいで、
    大事な大事な日にいらぬ余念をもたせてしまうことが
    どうしようもなく辛かった。

    結果、二人とも不合格。
    あんなに勉強したのに、志望校の壁は厚かった。


    それからもちろん私は電話をかけていない。
    むこうからもかかってこない。

    かっちゃんは第二志望の国立に合格して、3月から福岡をはなれることになった。
    でも、電話をかけていない間もずっとずっと忘れることができなくて、
    また偶然会える日を夢見ていた。

    そのとき、かっちゃんの親友のこうちゃんから電話がきて、

    「さほちゃんのライブ(さほちゃんというのは私の妹である)、
    かっちゃん誘ってみようか?」

    と気をきかせてくれたのだ。

    私はすごく迷ったけど、
    ライブだったら他の友達もくるし、
    二人きりになることもないし、
    気まずくなることもない。
    そう思って、こうちゃんに誘ってくれるように頼んだ。

    当日、待ち合わせ場所に来たかっちゃんは、
    白いシャツにジーンズ。
    髪もばっさり短く切って、
    長身のかっちゃんにはとても似合っていた。

    かっちゃんは私に
    「久しぶり」
    と、笑顔で声をかけ

    私は泣きそうになった。

    また会えるなんて思いもよらなかったし、
    話し掛けてくれたことが何よりも嬉しかった。


    ライブ会場に入り、席に座った。

    私はたまたまかっちゃんの隣に座ることとなった。

    すごく緊張したけど、昔にもどったみたいで嬉しかった。
    けれど隣に座っているにもかかわらず、まったく言葉を交わすことなく、
    ぎこちない雰囲気が漂っていた。

    1曲2曲3曲と、
    アップテンポのボサノバが流れ会場となっているバーが盛り上がってきた時、
    急にバラードの曲がはじまった。
    どっかで聞いたことあるなーと思っていたら、

    それは
    「コエヲキカセテ」
    だったのだ。

    わかった瞬間、
    かっちゃんが私の手を握っていた。

    かっちゃんは、あの時のこと覚えててくれたんだ。

    そう思ったら涙が込み上げてきた。

    かっちゃんは一言耳元で私に
    「ごめんね」
    といった。

    何を意味するのかわからないけれど、
    私達が好きだと言って口ずさんでいたあの曲を
    覚えていてくれたことがすごく嬉しくて、

    それだけで
    それだけで、私は十分だった。


    私達は

    その曲が終るまで

    ずっと手をつないでいた。


    その3日後、かっちゃんは福岡からいなくなった。
    それから知人の結婚式や、仲間内の飲み会で会うことはあるが、
    前みたいに仲良くはない。

    勿論、かっちゃんに彼女と続いているのかとか、
    私に彼氏ができたのかとか
    そういうことはお互いに一切触れない。

    たまにPCでメールのやりとりをしていて、
    私の大学院受験を応援してくれている。

    大学院に合格したら真っ先にかっちゃんに報告しようと思っている。



    それから余談だが、

    私が長身の男の人を好むのは、かっちゃんのせいかもしれない。

    男っぽい私が抱きしめられた時にかっちゃんが、

    「やっぱ、あいちゃんも女の子やね」

    って言ってくれたから。


                    (了)

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    新春特別企画

    「あらまあーの下町見聞録」
    (第3話)
    『浅草カジノ・レビュー伝説』

    (注)あらまあーの下町見聞録・
    第1話『歴史の中に消えゆく街』
    および2話『十二階と米久の話』は、
    『週刊』のHPの「あらまあー式私的空間」
    に収録されております。
    第1話はかつての『週刊』からの再録、
    第2話は「私的空間」のみのオリジナル掲載です。

    添乗員あらまあーより;
    このたびもあらまあーの下町再現ツアーにご参加くださり
    誠にありがとうございます。
    今回は皆様を1930年代の浅草にご案内いたします。
    シートベルトをお締めください。(爆!)
    なお、携帯電話は、
    タイムトリップするさいの障害ともなりかねませんので、
    電源を完全にお切りくださいませ。
    m(_ _)m
    びゅうううううううーーーん・・・・・・・
    ・。・


    (序章)タイムスリップ⇒1931(昭和6)年・浅草

    関東大震災後の浅草は、まばゆいばかりに変貌した。

    浅草ー上野間にわが国初の地下鉄が開通し(昭和2年)、
    吾妻橋(あづまばし)脇には地下鉄食堂ビルが完成した。
    一階が煙草屋と土産物類の販売店、
    二階が喫茶部、三階が禁煙食堂、四・五階が普通食堂。
    食券を買って、寿司類、洋食類、そして酒、ビールが飲める。
    さらに六階には屋上展望台、七・八階が頂上タワーとなっている。
    夜間はその尖塔に宝石の光がくるくると廻っている。

    夜。
    南千住行きの路面電車。
    玉ノ井行きの黄色い乗合自動車。
    アスファルトの近代道路から時代ののけ者にされた馬車の馬糞を
    車輪が踏み潰す。
    急ブレーキで止まった円タクの運ちゃんが、通りがかりの紳士に、
    「吉原(なか)まで五十銭で行きますよ〜〜」
    と声をかけている。
    神谷バーで電気ブランに酔った年配の男が、
    千鳥足で自分の帰る道を探している。
    最終電車を待つ男が、まだか、と屋台のソバ屋を急(せ)かし、
    ソバ屋のオヤジは焦(あせ)るように
    七輪(しちりん)を団扇(うちわ)で扇(あお)いでいる。
    定時バスの発着所のテント張りの待合所には、
    読み捨ての夕刊紙と、女車掌の忘れていったコンパクト。

    震災から復興後の浅草、
    その変貌は烈(はげ)しい。

    十二階はぽっきり折れ、陸軍工兵隊によって爆破され、
    跡形もなくなった。
    その下には通称『銘酒屋』と呼ばれた私娼窟があり、
    多くの人の命が奪われたことは、第1話でも述べたところである。
    各芝居小屋や映画館にあった幟(のぼり)の旗は消え失せ、
    きらびやかなネオンサインがそれにとって変わった。
    改築中(当時)の吾妻橋の袂(たもと)には前述の地下鉄食堂、
    その向かいに神谷バー、
    反対側の橋の右袂には朱色塗りの地下鉄入口、
    そこからは吾妻橋から両国方面へ向かう一銭蒸気
    (現在の水上バス。現在は浅草から日の出桟橋、お台場方面へと
    水上を進む遊覧船が行き来している)
    の発着所にも出られる。

    吾妻橋が化粧直しを終えて新装となる頃には、
    東武鉄道の浅草駅が高層建築を周囲に誇るように聳え立ち、
    そのビルの二階から屋上までを某有名デパート
    (=松屋。現在は、東京中心部では浅草と銀座にある。)
    が、借り受けることになるだろう。

    つまり、浅草は変貌したのだ。
    旧式な円太郎馬車や人力車の轍(わだち)が消えないうちに
    近代的な高層建築とアスファルト道路が急速に完成し、
    古めかしい神楽堂の建物をはさんでモダンなビルが立ち並ぶ、
    そんな街へと様(さま)変わりしてしまったのである。

    隅田(すみだ)川をはさんで壮大に拡がる、新装隅田公園、
    しかしここも改築中、囲いがなかなか取れないでいる。(当時)
    東京にこれだけの背景を持ちながら、
    ドライブウェイも、ビヤホールの屋上展望台も、モダン夕涼みボートも、
    一銭蒸気の後部納涼台席も、
    この囲いのためにすべて艶(つや)消しとなり、
    「はよ完成させんか!」
    の声がしきりと飛び交(か)う昨今である。

    震災後の浅草、当時の言い方で言うならば『整理後の浅草』、
    震災前と比較してそこから姿を消したものは、
    況(いわん)や十二階だけではない。
    各館の野暮くさい幟と、館の正面に掲げられたあくどい絵看板、
    それらにとって変わったのが、
    屋上からの小旗、窓ガラスの中の写真と絵、
    そして、瀟洒(しょうしゃ)なネオンサインである。

    瓢箪池(ひょうたんいけ)にもう十二階の姿は映らない。
    赤い灯蒼い灯の厚化粧の女たちが映らなくなった替わりに、
    まばゆいネオンサインの光に
    池の魚たちが戯(たわむ)れている。

    脚注:

    円タク・・・・東京市内ならどこでも1円ぽっきりで行くというタクシー。

    神谷バー・・・日本最古のバー。(第1章)にて詳述。

    電気ブラン・・・神谷バー名物・電気ブランデーの略。
    ブランデーは今日ではさして珍しくない洋酒ですが、
    当時は飲むと胃の中が火事になる(爆!)と言われ、
    必ずお水の入ったコップ付きで運ばれてきました。
    「電気」というのは、当時流行の最先端をいくものモダンなものに
    つけられた「冠(かんむり)語」で、=モダンな、という意味です。

    円太郎馬車・・・後部席にホロのついたおんぼろ乗合馬車。
    のちに(震災後)は東京市営バスの俗称として「円太郎」が使われた。
    ホロをかけた粗末な車体をおんぼろ馬車になぞらえて言ったものである。
    円太郎とは、落語家・橘屋円太郎のこと。
    円太郎が舞台でよく馬車の御者のラッパを吹くマネをして
    喝采を博したことから、この名がついた。




    (第1章)神谷バーと浅草の飲食店

    浅草の胴体というか屋台骨のひとつは、飲食店である。
    現在でも、
    大黒屋、伊勢屋の天麩羅、
    すき焼きのちん屋、今半、松喜、
    あるいはトンカツ・オムライスの河金、
    カニの蟹谷、牛鍋の米久など、
    昔ながらの銘店・老舗は多いが、
    浅草がさびれたという声を聞けば、それは飲食店の衰退を意味する。

    現在では浅草は東京の文化の中心地でもなく、
    お台場・汐止(しおどめ)のように
    若い人たちの集まる行楽地でもなくなった。
    ただ、歴史的にそうした位置にかつてはあった街としての
    『威厳』と『歴史的風格』の中に、生き残っているのみである。

    1931年当時は、すし屋と天ぷら屋が飲食店のリーダーであった。
    ところが、やがてそれらの多くの店々が両者を兼業するようになった。
    一本立てでは戦術上経営困難になったのである。
    これは、
    当時の震災バブルの好景気の反動からきた不景気が
    作用しているのだが、
    なんと言っても、
    時代の『趣向』がそうさせているのだとも言える。
    また、同時に、もうひとつの要因として、
    旧来からの銘店に対抗してめざましく躍進してきた
    簡易食堂群の存在があげられるのである。

    急進的な流れは、老舗の代々のレッテルを確実に剥がしてしまう。
    その時代の客は、もっとも正しい審判者である。

    どんな大店でも、
    来客の安直な吸収法として座敷席のほかに椅子席を設けたように、
    浅草の飲食店は生き残りのため、
    時代に迎合したなんらかの方法を見出さねばならなくなっていた。

    飲食店一般が当時の不況のあおりを受けている中、
    ただひとり賑わっていたのが、簡易食堂であった。
    この店たちだけは、活気に溢れ、溌剌(はつらつ)とし、
    浅草という巨大な物体の溶鉱炉の中に、客が凝集されていく。

    本来、浅草の飲食店は労働者や学生を客の主体としていた。
    しかしこの時代には客層は拡がり続け、
    家族連れ、女性同伴、女性同士、ネクタイ紳士など、
    以前ならば入口から店内を覗いただけで
    軽蔑の念を露(あらわ)にしていた人種までが、
    店内に呼び込まれていくようになった。

    本郷バー、須田町食堂、野口バー、ヤマニバー、タツミ食堂、
    常盤食堂、巴(ともえ)食堂、富士食堂、いろは酒場、
    大黒屋酒場、江沢酒場、荒井バー、三富食堂・・・・・・
    これら新興急進派の各店に
    老舗の大店は押されてきている。

    こうした新興派の簡易食堂群は、
    概(おおむ)ね2種類に分けられる。
    十銭鍋と十二銭の酒に怪気炎を上げる下町酒場ムードの店、
    大黒屋酒場、いろは酒場がこれに該当する。
    対して、・・・・・
    家族連れ、女性同伴にターゲットをしぼった食堂が、
    本郷バー、須田町食堂である。

    まず前者の酒場系食堂、
    ここは従来、赤だすきの田舎女中が働いていたが、
    この頃になると
    小粋な服装(なり)をした仲居が客に冗談のひとつも言うようになり、
    担当の客席に寄り添っている。
    彼女たちは客の気心を呑み込んでいて、てきぱきと動き回っている。

    対して、家族連れ系食堂のほうは、
    本郷バーのようにボックス席になっているところもある。
    こういう店にはエプロンをかけ蝶結びのスカーフを首に巻いた
    愛らしい少女たちが、客の注文を愛想よく受け、動き回っている。
    この娘たちも客の細かいところまで気がつき、よく働く。
    感激してチップを包む紳士も少なくないそうであった。

    ここで、当時の某食堂のメニューを紹介しておこう。
    当時の物価が手に取るようにわかる興味深いものである。


    (飲物等)

    珈琲(コーヒー)・・・三銭 紅茶・・・五銭 ソーダ水・・・八銭
    みつ豆・・・八銭 カルピス・・・十銭 
    ホットレモン・ホットオレンジ・・・十銭

    (酒類)

    生ビール、ウィスキー、ブドウ酒、ベルモット、キュラソー、
    ペパーミント、ジン、ウォッカ、・・・・・八銭
    アブサン、上ウィスキー・・・・・十銭
    日本酒(特級)、ラム酒・・・・十五銭
    カクテル・・・・・・・・・・・・・・・三十銭
    特上ビール・・・・・・・・・・・・四十銭

    (中華料理)

    シューマイ、ラーメン、ワンタン・・・・・・・十銭
    チャシューメン、ワンタンメン、チャシュ・・・・十五銭
    肉ヤキソバ、カントンメン・・・・・・・・・・・・二十銭
    エビソバ、エビヤキソバ、カニソバ、五目メシ、五目ソバ、
    カニヤキソバ、五目ヤキソバ・・・・・・・・二十五銭

    (西洋料理)

    コロッケ・・・・・五銭
    シチュー、魚フライ、カレーライス、カツレツ・・・・・八銭
    ハヤシライス、ポテトフライ、ビフカツ・・・・・・・・・十銭
    コールビーフ、メンチカツレツ、カキフライ、カニフライ・・・十三銭
    オムレツ、オムライス、チキンライス、ハムサラダ、フライエグス・・・十五銭
    合ノ子弁当、チキンソテー・・・・・・・・二十銭

    (日本料理)

    カズノコ、ヌタ、オヒタシ、ネギマ汁、ハマツユ、湯豆腐、御新香・・・五銭
    御吸物、カキ酢、タコ酢、イカ焼、ツボ焼、カキタマ。鯉コク・・・十銭
    刺身、茶碗蒸し、卵焼、月見、山掛け、シャコ酢・・・・・・・十五銭
    寿司、チラシ、鯉塩焼、鳥ワサ、うま煮、エビ酢、親子焼、鯉アライ、
    照リ焼、モツ焼、鬼ガラ、鯛塩焼・・・・・・二十銭
    アワビ水貝、舞子丼、天丼・・・・・・・・・二十五銭
    親子丼、開化丼・・・・・・・・・・・・三十銭
    {鍋類}二十銭〜二十五銭

    この「お品書き」は、当時の浅草を知る油絵でもある。
    生ビールよりもカルピスが高価であることが、
    カルピスなる飲物が当時は高級品であったことを如実に物語っている。



    神谷バーは、
    初代・神谷傳兵衛(かみやでんべえ)が、
    明治13(1880)年四月に
    東京市浅草区花川戸(はなかわど)町4番地にて、
    「みかはや銘酒店」を開業したのに始まる。
    酒の瓶売りではなく、一杯売りを始めたことが話題になり、
    夕刻には立ち飲み客で店は溢れていたという。

    翌14年、蜂印・香蜜葡萄酒(現在のハチブドー酒、ハチワイン)を
    誕生させ、販売を始める。国産ワインの走りである。

    そして翌15年には、名物となる電気ブランの販売を開始。
    明治45(1912)年四月十日、店舗内部を西洋風に改装し、
    屋号を『神谷バー』と改めた。
    日本では最初で最古のバーとして(開業明治13年という観点から)
    有名である。

    現在ではレストラン風に様変わりして、
    ランチタイムのセットなど、女性客や家族連れも多く店内に見られるが、
    歴史的名物「電気ブラン」は
    今もなおメニューの中に健在である。
    「電気ブランを飲まずに浅草で飲んだと言うな!」
    とは、土地っ子の空威張(からいば)りに過ぎるであろうか?(w)


    (第2章)レビューの時代

    浅草のこの時代は、活動写真(映画)や庶民劇と並んで
    レビュー・ショウ(当時の表記で言うならば「レビユー・ショオ」)
    を語らなくてはならないだろう。
    興業街は盛況を博し、
    帝京座、大東京、遊楽館、橘館、観音劇場、万盛座など、
    小屋の数はひしめき合うほどにあった。
    三味線とジャズの合体演奏、
    振袖姿の手踊りがあったかと思うと水着1枚のダンス、
    日本髪と短髪の混成舞踊、
    舞台の目まぐるしい変化は、観客を魅了した。
    帝京座のスター河合澄子が、華麗に踊る。
    キモノがはだけてチラっと見えるふくらはぎも観客サービスであろう。

    かつて室生犀星(むろうさいせい)は、
    『浅草の活動写真の小屋の便所から用を足しながら
    ふと乾いた路地裏を覗き見て、
    なぜだかうら悲しい気分になった』
    と書いた。
    この時代には、そういう路地裏に、
    たとえば、汗びっしょりになって練習する駆け出しの踊り子の姿や、
    向かい合った楽屋口から忙しく出入りするロシアの踊り子や、
    奇術師や、口喧嘩する太った女と痩せっぽち男の漫才コンビや、
    あるいは、生活に疲れて注射針を片手にした年増の三味線師や、
    意味もなく大声で笑う丸メガネのバイオリン引きなど、
    目まぐるしくも悲哀のこもった「裏風景」を
    かいま見ることができるのかも知れない。

    レビュー舞踏劇団『カジノ・フォリー』は、
    昭和4年・3月に旗揚げされた。
    旗揚げ当時はミジメなもので、観客も少なかった。
    川端康成は著作「浅草紅団(あさくさ・くれないだん)」の中で
    当時のようすをこう記している。

    『(原文のまま)
    人が少なくなると、
    この壁、椅子、床に、染みついた匂ひ-----乞食の匂ひが
    漂(ただよ)ってくる。
    諸君、これは形容ではない。
    レビユウ舞踏団旗揚げの頃も、
    水族館(あらまあー脚注:当時浅草奥山の水族館の二階で
    カジノフォリーは上演されていたので、
    この水族館とは通称でカジノのレビュー館を指す)
    は、乞食や浮浪者の客があったのだ。
    近代風に化粧した裸体の踊りを、
    乞食や浮浪人が眺めている。
    -----この怪奇な風俗画も浅草だ。
    そこへ、
    学生と「銀座の人々」とがぽつりぽつりとこぼれてきた・・・・』

    確かに旗揚げ当初は、
    どこでタダ券を手に入れたか、公園の浮浪者や乞食が
    昼間から客席で寝そべり、イビキをかいていた。
    彼らは、夢うつつのうちに舞台から聞こえる音楽を聞いたり、
    ふと目を覚ましては、若い子の踊りを見ていた。
    なんともはや、奇妙な光景ではあった。
    しかし、そのうちに、
    気の利いた寸劇や独特の歌いっぷりなどがクチコミで伝わり、
    ふだん浅草へ来たこともない「銀座の紳士」風の連中、名士などが、
    好んでこのカジノへ足を運んで来るようになったのである。

    それはレビュー・ショウ全盛の時代の、前兆でもあった。

    浅草奥山の水族館は、六区の映画館の建物と比較すれば、
    それはそれは小さくお粗末なものだった。
    館内は薄暗く、ひんやりして、薄ら寒い。
    四方の水槽にはガラス張りの水槽がいくつも並んでいるが、
    特に珍しい魚がいるわけでもない。
    どこでも見かける海魚がくたびれた格好で
    ぐったりと水槽の中で横たわっている。
    つまりここは、水族館とは名ばかりの場所であった。

    このインチキ臭い水族館の二階に、カジノフォリーはかかっていた。
    水族館はいつもがらがらだが、
    二階のレビュー館はしだいしだいに賑わいを見せることになる。
    「あいにく乙姫様はこっちの水族館じゃなくて、二階にいるんでね」
    と苦笑いするのは、このビルの支配人である。

    カジノ館のすぐ隣には。木馬館の建物があった。
    浅草木馬館といえば、近年では、
    梅沢富三郎劇団などで有名になった小屋だが、
    そもそも回転木馬を置いた場所であった。
    子供が耳やしっぽの取れた色の剥げた木馬にまたがり、
    チンドン屋のような楽隊のジンタのリズムに合わせて
    ぐるぐる廻り出す。脇のベンチの父親は、
    わが子が廻って来るたびに紙の旗を振って迎える。
    そう、現在の『遊園地のメリーゴーランド』の走りである。
    庶民ののどかな風景、
    いまはもう浅草でさえも見られなくなった情景である。


    踊り子の楽屋風景はどこも似たり寄ったりだが、
    永井荷風の「勲章」の中にオペラ館のことが出てくる。

    『踊り子はいつもたいてい15人か16人、
    破れ畳に敷き載せた座布団の上に、
    裸体同様のレビユの衣裳やら、湯上りの浴衣やら、
    思い思いのものにわずか腰のあたりを隠したばかり。
    誰が来ようが一向に平気で、横になったり、仰向けになったり、
    あぐらをかいたりしている。
    四五人寄ってカルタ(=花札)を切っている者もあれば、
    乳呑み児を膝の上にして鏡に向かって化粧をしている者もある。
    ひとり離れて余念なく付け睫毛(まつげ)をこしらえたり、
    毛糸の編物をしている者もあれば、
    講談雑誌に読み耽(ふけ)っている者もある。
    ・・・・・(中略)
    安い香水と、油と、人肌と、埃(ほこり)との混じり合った重い匂いが、
    人の呼吸を圧する。
    階下のほうから、音色の悪い楽隊の響きや、人の声が
    遠く聞こえてくる。
    木造の階段を下駄履きで上り下りする足音の絶え間がない。
    これらの物音は窓外の公園一帯の雑音とひとつになって、
    部屋の低い天井に反響する甲高(かんだか)い女の話し声、
    笑い声、口癖になった練習の歌声などの騒々しさを、
    慣れればさほどにも思わせない程度に和らげている。・・・』

    そして、なお乱雑で騒がしいうちにも、
    場末の色街で感じるような淡い哀愁の情味を
    この手にすくい取ることが出来る、
    と荷風は、彼らしい表現で語っている。

    このオペラ館よりもカジノ・フォリーの小屋は規模も小さく、
    万時がこれから、というところである。
    カジノ・フォリーの踊り子は14、5歳から二十歳までが主力である。
    舞台の華やかさに比べ、踊り子の楽屋はおよそ寒々としたものだった。
    隅のほうでひとりで黙々と編物をしている者、
    トランプを玩(もてあそ)んでいる者、
    舞台化粧を済ませて何やらこそこそと友人と話し合っている者。
    そこには先の荷風の叙述のような楽屋内の喧騒はなく、
    あまつさえ悪ふざけや色っぽさもない。

    粗末な階段を昇ると、中二階に出る。板敷きの座敷があった。
    舞台は思ったより狭く、小さい。客席は後ろへいくほど高くなっている。
    細長い椅子が何列にも並んでいた。
    最初のうちは客もつかなく、
    前のほうの椅子にまばらに観客の姿が見えるだけである。
    それでも、舞台は明るく、
    若い踊り子が飛んだり跳ねたり歌ったりしていた。


    (第3章)カジノ・フォリー、まもなく上演
    ----そして浅草レビュー伝説へ!

    浅草奥山、
    すぐ前には伝法院の壁、共同トイレ、震災から焼け残った茶店、
    横隣が木馬館、その裏側は藤棚とベンチ。
    『水族館』はその場所にあった。
    水族館ビルディングの二階が
    噂のレビュー・ショー上演館、
    そう、カジノ・フォリー!
    屋上は夕涼み展望台、地下にはカジノ食堂。

    カジノ地下食堂の入口にはガラス張りのウィンドウの中に、
    カツレツ、コロッケ、野菜サラダ、オムレツ、ライスカリー、
    それに、珈琲、曹達(ソーダ)水、・・・・・・・・

    畳の座敷席とテーブルの椅子席と二様に分けられた地下食堂の店内、
    衝立(ついたて)の向こう側の席から私服の踊り子が腰を上げた。

    冷たいコーヒーに濡れた深紅のルージュが開いて、
    「きょうはお稽古ないのよぉー。お先に」

    奥から厨房の若い衆が冷やかす。
    「〇〇さんと待ち合わせて、お楽しみじゃないのお?」

    ムキになった顔で振り向いた彼女は、
    「いーーえ、まっすぐ帰るのー! 誰があんなカチグリ野郎なんかと。。
    お楽しみなんてないわよ! おぼえてらっしゃい」

    つい5分前までカツ丼をくわえていた同じ唇から
    精一杯の憎まれ口。
    彼女は颯爽と地下食堂から階段を駆け上って行く。

    外に出ると、空はすでに漆黒。
    野良犬が外灯のたもとに自分の痕跡を残している。
    路上に流れる電気蓄音機の奏でる流行小唄。

    角(かど)の外灯の脇を廻って裏路地を進めば、
    そう、そこが、
    噂の『カジノ・フォリー』の楽屋口。
    大きなゴミ箱が一個、
    その上に雨水にさらされた鳥打帽(ハンチング)、
    ビールの空瓶が無造作に転がっている。
    トタンの塀には張り紙。
    「御用のお方は正面入口へ」

    木戸を開ければ、内側は別世界。
    緑のマントをはおって剣をさげた勇ましい女騎士が、
    出入り口前、
    縁台替わりのミカン箱に腰掛けて、
    自分のセリフをぶつぶつと繰り返しながら、
    出番を待っている。

    さらにその先、
    ひと棟(むね)のモルタル造りの平屋に、
    営業部、文芸部、楽屋と風呂場。

    踊り子たちからオジチャンと呼ばれる営業部長は、語る。

    「よくドロボウが入るんですよ。
    踊り子の舞台衣装を持っていくんです。
    1度に7枚も盗まれて困ったこともありましたっけ。(笑)
    それから、踊り子たちの後始末が大変でしてね。
    夏場なんかは、ほら、体を使う仕事でしょ?
    蒸し暑い日なんかは、みんな踊ってきた後はぼおーっとしてます。
    寝る前に見回ってみると、風呂場には舞台用の剣や銃、
    靴下なんかもよく落ちてますねー。
    こういうのを始末していくのにひと苦労ですわ」

    地下のカジノ食堂に働いていた田舎出の女給のひとりが、
    そのすらっと伸びた足と愛くるしい瞳のおかげで、
    レビューのほうに引き抜かれて二階の舞台へ。。
    これは単なる噂話とも言い切れない。
    プログラムには、
    「レビユ研究生(女性のみ)募集 14〜18歳まで 本人来談」
    と記されている。
    面接係の文芸部長は、
    「なにしろ面接に来る子はみんなドシロウトなんでね、
    足を見せなさいと言っても恥ずかしがってモジモジしてます。」
    と苦笑いで話す。

    ちょうどそのとき、開幕のベルが鳴った!
    バラエティー十種、
    フィナーレはマジョルカ『薫風のパラダイス』、
    そしてメインはレビュー『新東京風景』!!

    売れっ子スター梅園龍子が、花島喜世子が、
    舞台せましと、踊る!踊る!
    しばし夢の世界へと、客たちは誘(いざな)われる。
    ♪〜〜♪〜〜♪〜〜

    レビューの前座そして合い間には、
    寄席芸人たちも登場して観客を笑わせる。
    カジノ・フォリー出身の芸人といえば、枚挙に暇(いとま)がない。
    榎本健一、清水金次郎、森川信、清川虹子、淡谷のり子、
    ずっと後輩には、渥美清もいる。。。。。。。。

    この形式、ショウの前座と合い間に「お笑い」という形式は
    第2次大戦後のストリップ・ショウ全盛の時代まで継承された。
    フランス座、ロック座、、、、、
    ストリップの前座からのし上がった芸人といえば、
    コント55号の萩本欽一、欽ちゃんがいる。
    さらにその後輩にはフランス座の前座漫才をしていたツービートの
    ビートたけしもいる。

    信じられないほどの有名芸人・俳優を輩出してきたのが
    この浅草の舞台である。
    カジノレビューの時代から脈々と受け継がれているこの伝説---
    何年に1度か信じられない大物芸人が出てくる、
    という浅草伝説!

    これからもこのさびれゆく街--浅草の舞台から、
    奇跡的に大物芸人が生まれ出るのであろうか?

    いや、時代はもう次のヒーローを待っているのかも知れない。
    そしていまこうしているこの時刻にも、
    次の大物がいつその産声をあげようかと、
    密かにその時期を待ち構えているのかも知れない。
    その時期を心待ちにしつつ、
    今回の1931年への紙上旅行は、
    このへんで終わりとしよう。


    {跋}

    添乗員あらまあーより:

    皆様、お疲れ様でした。
    今回のタイムマシンによる紙上旅行は、
    ひとまずこれにて終了いたします。
    再びこの場所にて皆様とお会いできる日を楽しみにして、
    今回の皆様の本ツアーご参加に対する
    御礼の言葉に換えたいと思います。
    なお、お手持ちのお荷物等はぜひともお忘れなきよう、
    お気をつけてくださいませ。

    添乗員は、あらまあーでした。
    本日は、誠にありがとうございました。

                                 {了}

    ----------------------------------------------------------------------------

    閑話休題

    ゴールデンボス様おおいに語る

    (注)以下は、
    あらまあーがボス0423さんからメッセでインタビューしたものを
    独白形式に直したものです。

    こんにちわ〜〜、ボスです。

    ドジなボスです。
    ハンゲの彼氏にプレゼントされたティファニーのネックレスを
    クリスマスイヴの夜に着けて、
    翌クリスマスの夜には止め金が壊れて、
    ずるっと首からこぼれ落ちる、
    なんていう愚かな経験をしたボスで〜〜っす。

    去年の夏のコンサートのオフ会に50人ぶんのおみやげを持っていった
    あのボスでーーっす。
    (おかげで帰りに「白い恋人」を持ってる人の多かったことw)

    ハンゲのポーカーで1日に3回、4カードをやったボスでーーーっす。
    (なんとそのうち1回は「はふだい卓」で5人でゲームしてて、
    いっぺんに4人飛ばしました。www)

    このあいだのうたかたさんの大会で麻雀の神様の気まぐれから
    自己最高の97200点のトップを取り、
    最後のスコアを見た瞬間、手にしていたコドクのグラスがずるりっ、
    と落ちたボスで〜〜〜〜っす。

    そう、うたかたさんをこづきながら
    「ハラへったー」とわめきながら浅草の路を歩き、
    回転すし屋に入るや大ジョッキー3杯をあっという間に飲み干して
    皿の山を積み上げた、あの、ボスでぇええええ〜〜〜っす。

    人によっては私のことを「歩くサイフ」と呼ぶ、ボスどぇ〜〜〜っす。

    今日はこのぐらいにしといてやらぁ!
    ヽ(^∇⌒*)☆(o_ _)ノ彡☆ばんばん!

    思えば、忘れもしない去年の10月6日、
    ムササビ杯開催の4日前、
    ちくわの制止も振り切って、大会の計画などそっちのけで
    ハンゲのビリヤードで遊びまくっていたこの私に、
    ちくわのちょっといなくなったスキに近づいてきたのが、
    何を隠そう私にティファニーをプレゼントしてくれた彼氏でした。
    (。-_-。)ポッ(@'o'@) ぽっ(。-_-。)ポッ
    ま、そんなことはどうでもいいか・・・・・・


    今回は最近のめざましい私の麻雀大会における戦績について
    お話しさせていただこうと思っています。

    このあいだのしんちゃん杯、
    なぜか気持ちの張りが消えて、私は5位!
    しかも最終戦まで優勝争いに加わっていました。
    結果順位は、2,1,1,4。
    3試合終了まではなんとトップを走っていたのですが、
    なんとなんと・・・・・
    最終戦で飛んじゃいまして、−1200!!
    くっやしいいいぃいいい〜〜!
    トヨタのヤスさんに優勝をさらわれました。

    第1戦の2位は、トップが雀麗さんという試合でした。
    雀麗、トヨタのヤス、りきりきという顔ぶれで、25600の2位。
    2回戦、貴公子、千社札、sugi_というメンバーで、
    ボス爆弾が炸裂!64900のトップ。
    3回戦はmienyan、satokim、風鈴という面々で、60500のトップ!

    しかししかし、最終戦・・・・・
    アトレイユ、うまたん、tomochan1、という顔ぶれで、
    なんと私は−1200と飛ばされ、断ラス。
    。・°°・(>_<)・°°・。 ウエーン


    でも正直なところ、結果には満足してます。
    あれだけのメンバーで総合5位ですから。
    まーにはボスの話にはやっぱり最後にオチがある、
    なんて言われちゃいますが、次回はもっと頑張ろうと思ってます。
    へたっぴーですが、根性と酒の強さでは負けないつもりです。

    それから、最初にも申しましたように、
    先日のうたかたさんの大会、
    なんとこのボスが97000だいのトップを取れました。
    この点数は自己最高! ちょっぴり鼻が高いです。
    ま〜(注:あらまあーのこと)にはよく、
    「ボスがツキ出すと手がつけられなくてコワイ」
    と言われますが、
    私なりの根性と負けん気の強さで、これからも頑張っていくつもりです。

    そうそう、私はこう見えても根性はあるんですよ。
    (え?知ってた?w)
    夏の東京オフ会の時も品川〇〇〇〇ホテルに早く着きすぎてしまい、
    (チェックイン時刻よりもかなり前だったので)
    「まだお部屋のしたくができておりません」
    と言われてしまいました。
    そこで、私の部屋は何階かと聞くと、なんと10階だとのこと。
    (ノ; ̄◇ ̄)ノ ええええー?
    「・・・・初めて東京に一人で来てここに泊まることに決めたんだから、
    もっと上のほうのいいお部屋にしてくれませんかぁ?」
    と頼んで、いったんはホテルを出ました。
    そして・・・・チェックイン時刻が来て、、、、
    ホテルの部屋に案内されると・・・・・・・・・・
    そこはなんと最上階! \(@^0^@)/やったぁ♪
    東京タワーは見えるわ、レインボーブリッジは見えるわ、
    それはそれはとても眺めのいい部屋でした。

    あ、いっけねー、話が脱線!
    今回は私の麻雀の話でした。

    去年Jパーティでグループ優勝したあの感激を
    (ちなみにパートナーは、うまたんさんとmsさんでした)
    胸に秘めて、
    いつかはきっと何かの大会で優勝してやるぅうー!
    と野望を抱いているボスなのです。

    今後ともこのゴールデンボスを(爆!)、
    よろしくお願いしま〜〜っす。
    m(_ _)m ペコッ!


    ThunderVさんからの出題

    ういーーっす、ThnderVです。
    お暇な方は、麻雀クイズ、つきあってみてください。

    流局した時全員が二・三マン待ちになっていました。
    二・三マン待ちになる形を4つ挙げなさい。
    ただし、全員23m待ちのみで
    多面張(例えば3334mとあっての235m待ちとか)
    にはなってないものとします。

    こんな問題です。
    まず、二マンと三マンのシャンポン待ち。
    これは誰でもすぐ思いつきますよね。
    それから・・・・・・
    一一一三
    の二・三マン待ち、
    それと、
    二四四四
    ここまではフツウ思いつきます。
    二二三三  一一一三  二四四四
    このほかに、もう1個です。

    わかりますかぁ?
    ちなみにあらまあー氏は
    一二二三四五六七七七
    という回答を出しましたが、これは不正解。
    なぜなら二マンはもうすでにあとの3人が3枚使っているので、
    この形はあり得ないからです。
    しかしこのあらまあー氏の誤答がいいヒントになってると思います。
    アッ、ヒント出しすぎちゃった。w
    この形をちょいヒネれば・・・・正解にたどりつきます。


    もう1問、むずかしいほうの問題です。

    手牌14枚で、何を切っても役満のテンパイ形になる
    手牌を挙げなさい。
    ただし、
    フリテンになる形や
    高め安めとあっての高めのみ役満を除きます。

    モチロン国士13面チャンは『フリテンになる形』に入るのでダメです。
    これはむずかしいいい〜〜〜っす。

    さて考えてみてください。
    正解は、後日、
    週刊あらまあーホムペのメイン掲示板(あらまあー的掲示板)
    に発表します。
    正解がわかった方は先に掲示板に書いてもいいそうです。w

    がんばってね〜〜〜〜。www
    ThunderVでした。



    週刊あらまあーホームページ更新記録

    週刊のホムペはこの4月をもって早くも満1周年を迎えます。
    これもひとえに皆さんのご支持のたまものであると感謝にたえません。
    以下に更新記録を表示しておきます。m(_ _)m

    6月1日 野球狂集合 更新
    (背景刷新、日本シリーズ史追加)
    6月2日 あらまあー的インタビュー更新
    (6月ゲスト、雀帝さん・mienyanさん)
    6月4日 ゲームコーナー「うさぴょんパズル」追加設置
    6月5日 メイン・トップの「あらまあーからのご挨拶」更新
    ひとみギャラリー・1枚目の絵を設置
    6月6日 「言いたい放題」に東風荘、ハンゲ、麻雀大陸など、5箇所のサイトへの
    ミニ・リンク設置
    6月8日 野球狂ページに「Take me out to the ball-game」をBGMとしてアップ
    6月11日 「博打入門」をスペシャルMenuとして新装。「オイチョカブ」を追

    6月11日 初級者版・2 メール配信開始
    6月12日 「プレイヤーズ・エッセイ傑作選」4作品・追加
    『私的空間』に「雀力問題集」アップ(「週刊」の再録)
    6月14日 野球狂メインにBGM「東京音頭」をアップ
    『私的空間』に「頭脳パズル問題集」アップ(「週刊の再録」)
    メイン『スペシャルMENU』に「万馬券を当てよう」を新たに設置
    トップページ、ひとみギャラリー・2枚目の絵『みかん星人』展示
    6月15日 「万馬券を当てよう」に『競馬狂用掲示版』追加設置
    6月21日「万馬券を当てよう」に『競馬予想SP』追加設置(ゲーム開始は22日
    から)
    ひとみギャラリー・3枚目の絵『うりぼー』展示
    6月22日「大会告知・求人広告」コーナーを「大会・求人広告掲示版」に変更設置
    6月26日『週刊あらまあー・19号』アップ
    6月28日競馬予想SPに今週の予想レース「宝塚記念」設定
    ひとみギャラリー・4枚目の絵『ベイスターズ山下監督』展示



    7月1日 トップの「あらまあーからのご挨拶」更新
    「あらまあー的インタビュー」更新
    (7月のゲストは、Bear510さん、ボス0423さん)
    7月2日 『初級者版2・得点計算編』アップ
    7月5日 「競馬予想SP」予想対象レースを『函館S・S』に設定
    7月11日 「私的空間」に『下町見聞録』の第1話・第2話を一挙アップ
    7月12日「競馬予想SP」予想対象レースを『七夕賞』に設定
    ひとみギャラリー第5弾、『鉄腕アトム』展示
    7月26日 競馬SPの予想対象レースを新潟11R『麒麟山特別』に設定
    トップの「ご挨拶」更新
    7月27日 競馬SPの予想対象レースを『函館記念』に設定
    7月31日 「あらまあー的インタビュー」更新(8月のゲストはThunderVさん、
    すいす♪さん)
    トップメニューの「スペシャルメニュー」並べ替え
    「野球狂集合」をSPメニューに。
    「万馬券を当てよう」⇒「競馬狂集合」に。
    「あらまあーの博打入門」⇒「博打狂集合」に。
    以上、変更しました。

    8月2日 土曜日の「競馬SP」の予想対象レースを「新潟日報賞」に設定
    「博打狂!集合」に『手本引き』を追加!
    ひとみギャラリー、作品6として「ツマグロヨコバイ」を展示
    8月3日 日曜日の予想対象レースを「関屋記念」に設定
    8月9日 土曜日の予想対象レースを「中部日刊スポーツ杯」に設定
    8月10日 日曜日の予想対象レースを「函館2歳S」に設定
    8月11日 月曜日の予想対象レースを「豊栄(とよさか)特別」に設定
    8月16日 土曜日の予想対象レース「苗場特別」に設定
     土曜日、夜の大井ナイター競馬「サタデーナイト賞」を予想対象に設定
    8月17日 日曜日の予想対象レースを「クイーンS」に設定
     ひとみギャラリー作品7として「埴輪(はにわ)」を展示
    8月20日 高校野球トト設定
    8月22日 トップページをリニューアル メニューページ、ご挨拶ページなどを改

    8月23日 予想対象レースを新潟メイン『瀬波特別」に設定
    8月24日 予想対象レースを『札幌記念』・『アデレードシティカップ』(大井)
    に設定
    8月25日 『ひとみギャラリー展示室』を設置、作品8「ウーパールーパー」
    8月26日 大井ナイター競馬予想、対象レースを『晩夏賞』に設定
    8月27日 『週刊20号』ようやくアップ(爆!)
    大井ナイター競馬予想、対象レースを『アフター5スター賞』に設定
    8月28日 大井ナイター競馬予想『サーフサイド賞』に設定
    「博打狂集合」に『テキサスホールダム・ポーカー』を追加
    8月29日 大井ナイター祭り最終日『サザンクロス賞』に設定
    8月30日 土曜日競馬予想対象レースを『平尾台特別』に設定
    8月31日 日曜日競馬予想対象レースを『新潟記念』に設定
    私的空間にひとみqueen作
    『漫画道はじめの一歩』『ホラー漫画道』をアップ


    9月1日 あらまあー的インタビュー更新
    {9月のゲストは火輪さん篠芙さん}
    9月4日 「野球狂」メインページに『六甲おろし』のBGM復活
    9月6日 「競馬狂」予想対象レースを『エルムS』に設定
    『ひとみギャラリー・展示室』に「作品9・ジャンボたにし」を展示
    9月7日 日曜日予想対象レースを『新潟2歳S』に設定
    9月9日 大井ナイター競馬・予想対象レースを『トゥインクルレディー賞』に設定
    9月13日 競馬狂予想対象レース、『朝日CC』に設定
    9月14日 競馬予想対象レース、『京成杯AH』に設定
    9月20日 競馬狂予想対象レース、『ながつきS』に設定
    9月21日 競馬狂予想対象レース、『セントライト記念』に設定
    9月27日 競馬狂予想対象レース、『セプテンバーS』に設定
    9月28日 競馬狂予想対象レース、『神戸新聞杯』に設定


    10月1日 あらまあー的インタビュー更新
    {10月のゲストはうたかたさん・・・自動・・・さん}
    10月4日 競馬狂予想対象レース、『ポートアイランドS』に設定
    10月5日 競馬狂予想対象レース、『スプリンターズS』に設定
    10月11日 競馬狂予想対象レース、『アイルランドT』に設定
    10月12日 競馬狂予想対象レース、『毎日王冠』に設定
    10月13日 博打狂!集合!のコーナーに『博打狂専用掲示板』を設置
    10月18日 競馬狂予想対象レース、『デイリー杯2歳S』に設定
    10月18日 『週刊あらまあー21号』ようやくのことアップ(爆!)
    10月19日 競馬狂予想対象レース、『秋華賞』に設定
    10月25日 競馬狂予想対象レース、『富士S』に設定
    10月26日 競馬狂予想対象レース、『菊花賞』に設定
    10月28日ひとみギャラリー『作品10』として「阪神タイガース・下柳投手」を
    展示
    10月28日 野球狂集合のメインページのBGMに「福岡ダイエーホークス応援
    歌」アップしました
    10月30日 『別館週刊あらまあー』とりあえずアップ、本館とリンク完了


    11月1日 あらまあー的インタビュー更新
    {11月のゲストはトヨタのヤスさん、雀麗さん}
    11月1日 競馬狂予想対象レース、『スワンS』に設定
    11月2日 競馬狂予想対象レース、『天皇賞』に設定
    11月3日 競馬狂予想対象レース、『JBCクラシック』に設定
    11月8日 競馬狂予想対象レース、『カシオペアS』に設定
    11月9日 競馬狂予想対象レース、『アルゼンチン共和国杯』に設定
    11月15日 競馬狂予想対象レース、『京洛S』に設定
    11月16日 競馬狂予想対象レース、『エリザベス女王杯』に設定
    11月22日 競馬狂予想対象レース、『東京スポーツ杯2歳S』に設定
    11月23日 競馬狂予想対象レース、『マイルCS』に設定
    11月29日 競馬狂予想対象レース、『ジャパンカップダート』に設定
    11月30日 競馬狂予想対象レース、『ジャパンカップ』に設定



    12月1日 あらまあー的インタビュー更新
    (12月のゲストは、ポチコロさん、ふくねこさん)
    12月6日 競馬狂予想対象レース、『ステイヤーズS』に設定
    12月7日 競馬狂予想対象レース、『阪神ジュベナイルF』に設定
    12月14日 競馬狂予想対象レース、『朝日杯フューチュリティS』に設定
    12月19日 あらまあーからのご挨拶、更新
    12月20日 競馬狂予想対象レースを『ディセンバーS』に設定
    12月21日 競馬狂予想対象レースを『阪神牝馬S』に設定
    12月27日 競馬狂予想対象レースを『中山大障害』に設定するも、降雪のため
    レース中止が決定し、
    急遽、対象レースを『ラジオたんぱ杯』に変更する。
    12月27日深夜 ついに『週刊22号』完成!アップする。
    12月28日 競馬狂予想対象レースを『有馬記念』に設定、このレースにて第2
    クールの全日程終了


    1月1日 あらまあー的インタビュー、インタビューゲスト更新
    (1月のゲストはキシボンさんメグミさん)
    1月1日 あらまあーからのご挨拶・『お正月バージョン』に更新
    1月2日 博打狂「バクチ王レース」第2シーズン・スタート『駅伝予想』
    1月3日 別館メニューページにBGM・ペトゥラ・クラーク「ダウンタウン」を設

    1月3日 競馬狂・競馬予想SP 第3クール・スタート「金杯」から。。
    1月10日 競馬予想SPのトップに「JRA公式HP」へのリンク設置
    1月12日 博打狂集合のインデックス・ページ(トップ)に、『バクチ王レース・
    ランキング』を追加
    1月28日 あらまあーからのご挨拶『バレンタインバージョン』に更新


    2月1日 あらまあー的インタビュー更新(千社札さん、りきりきさん)



    3月3日 あらまあーからのご挨拶・更新
    3月6日 あらまあー的インタビュー更新
    (J☆BOYさん、かずねママ♪さん)

    つうことで、これからも、よろしく!^^
    ----------------------------------------------------------------------------

    {4}

    前回の続きになる。
    「間(あいだ)四間」という待ち読みについて説明するのだが、
    まずは凡例テキストから。

    (D)あいだ四間

    凡例テキスト:
    三五六八(6)(7)(9)3478北中
    この配牌。東1局南家とする。ドラは5ピン。

    第1ツモが3ソウで北打ち、
    白ツモ・打9ピン、
    以下、1ピンツモ・ツモ切り、
    6ソウツモ・三マン切りで、
    手牌は以下のようになる。

    五六八(6)(7)334678白中 (ドラ:(5))

    さらに、3ソウツモ・打中、
    五六八(6)(7)3334678白
    この時点で678の三色があるので、八マンはまだ、はずせない。
    北、西とツモ切りが2巡続いて、
    次巡のツモがドラの5ピン!
    ここで、いよいよ打八マンとなる。
    五六(5)(6)(7)3334678白
    なぜなら、八マンを残して打白と手を目一杯広げたにしても、
    五六八(5)(6)(7)3334678
    七マンを引いて打五マンとした場合、
    六七八(5)(6)(7)3334678
    この手で以後8ピンを引いて三色への手変わりを考えるとしても、
    2・5ソウ4ソウの3面チャンなので
    手変わりよりも先にツモってしまう可能性が大であり、
    さらに、8ピンを引いてきてもドラの5ピンがその時点で切れるか?、
    という問題もある。
    ならば、この時点で、打八マンとして安全牌の白(であると仮定して)
    を残し、678の三色には見切りをつけ、
    メンタンピン・ドラ1の3面チャンをめざすほうが自然であろう。
    そこで、・・・・・・・
    五六(5)(6)(7)3334678白
    というイーシャンテンとなる。
    次巡、南をツモり(これも場に2枚出ているほぼ安全牌)白切り、
    3面チャンのソウズのほうを先にツモって・・・・
    五六(5)(6)(7)3334678南 {ツモ⇒2}
    南打ちで、即リーチ!
    ここも567の三色への変わり目もあるが、
    5ソウと8ソウが代ったにしても、七マンでアガって初めて三色である。
    ならばここは、東1の運だめし、即リーに出たことも頷ける決断である。
    もちろんヤミテンでかまえてあくまでも567への手変わりを狙い、
    それ以前に出れば3900ツモれば5200でじゅうぶん、という戦法も
    選択肢のひとつではある。
    ここでこの手牌の主は、即リーチと出た。

    五六(5)(6)(7)23334678 (ドラ:(5))
    四七マン待ち!
    リーチならば出て最低7700、
    ツモってウラ1枚あればハネ満である。

    さて、ところで、このリーチの捨て牌相は・・・・・

    (注:下線はツモ切り牌)

    北・(9)・(1)・三・中・北・西・八・白・南{リーチ}

    となる。ソウズが1枚も切れていない読みにくい捨て牌相ではあるが、
    これを相手の立場から待ち読みしてみよう。

    マンズの待ちならば、『あいだ四間』読みで、
    四・七マンが本線となる。

    モチロン六九マンもないとは言えないし、
    三三四という形や二三三からの三マンのはずし時を早めにした
    一四マン待ちや二五マン待ちもないとは言い切れないが、
    8巡目の八マンが手出しである(=ツモ切りではない)以上、
    八マンを手に残して先に三マンの早ハズしというのも
    どうも不自然である。
    それがあり得るケースとしては・・・・・

    (1)『三四四(または二二三)とあって、
    ほかでタアツ(メンツのタマゴ)が決定し、
    四(または二)を雀頭に確定させて三が出た。
    その後に出てきた八は、
    678か789の三色目があるため残しておいたが
    イーシャンテンで見切りをつけて捨てた八か、
    あるいは、
    七八八から1枚ハズした八である。』
    という推理(読み)でいくならば、
    三をまたぐ二五マンや一四マンは比較的安全スジとなる。
    しかし、七八八から八をハズした六九マンの可能性はじゅうぶんある。

    もうひとつの推理、
    (2)『三は単なる浮き牌であり、ほかでタアツが確定し、
    浮いている三を切った。』
    と読むのであれば、ここでも三をまたぐ二五や一四は安全スジである。
    しかし、七八八から八をハズした六九マンの可能性は依然として残る。

    もうひとつの可能性を考えてみる。
    初級者の方々にはやや内容が煩雑(はんざつ)になってきている
    かも知れないが、ご容赦ください。
    (3)『二三三もしくは三三四とあり、
    123あるいは234または345の
    三色系牌姿であったので、三を先切りした。
    後から出た八マンは、
    七七八(または八九九)から七(または九)をアタマに確定させての
    八の出であるか、
    雀頭を固定させないスタイルの手作りをしていて、
    七八というタアツに七が重なったか、八九に九が重なったか、
    どちらかの事情で、飛び出てきた八マンである。』
    この最後の『推理』のみ、
    一四マン・二五マンは危険スジであり、六九マンは安全スジである、
    という読みが成り立つ。

    さて(1)(2)(3)の各推理から綜合して、
    可能性のあるなしの「読み」の判断をくだすのであれば、
    あらまあー的には、この捨て牌相では、

    北・(9)・(1)・三・中・北・西・八・白・南{リーチ}

    『三をまたぐスジの内の牌、
    すなわち一マンや二マンは比較的安全牌であり、
    まだしも気の利いた待ちとしては、
    六九マンの可能性のほうがあるかも知れない、
    しかしながらあくまでもマンズの大本命は、四七マンである。
    ピンズは、2・5・8のスジよりも4・7、3・6を警戒したい。
    (モチロン、2・5・8が絶対にないとは言い切れないが・・・
    ま、これがあらまあー流の読みスジとでも言っておきますw)
    ソウズは正直、全部こわい!(爆!)
    ただし、場に出ていない種類の牌は意外と通ることがケッコウある。』
    と読む。
    この程度の読みは、妥当とまでは言わないが、ごく自然・普通であろう。

    モチロン勝負事であるから、
    絶対に一マンや二マンが通るとは言い切れない。
    ソウズも正直、こわい。
    しかし、だからと言って、
    「待ちなんかわかるはずがないのだから常にオリる必要はない」
    とばかりに、ただ目茶苦茶に向かっていくのであれば、
    麻雀に『読み』などという分野は必要ないであろう。
    「いつも要らない牌をただただ切っていくのが麻雀というゲームだ」
    と主張する向きには、
    この『麻雀における推理』というテーマ自体が
    無用の長物である。

    それにしても、繰り返しになるが、ここでの本線は
    マンズならばあくまでも四・七マンである。
    この場合、捨て牌から法則的にたぐれば、

    北・(9)・(1)・三・中・北・西・八・白・南{リーチ}

    4巡目の三マンと8巡目の八マンに着目し、
    この同種類のふたつの牌(=数字的には「5」離れている牌)
    の間(あいだ)の四間を構成するスジ(=この場合は四・七)
    を危険スジと読む方法を、『あいだ四間読み』という。
    もう少し詳述すれば、
    前回の(1)で説明した「裏スジ」、
    その「裏スジ」の一致する同種のふたつの牌、
    (この場合で言えば三の裏スジも八の裏スジも、四七のスジである)
    これが捨て牌相に表れている場合、
    その間の四間スジ(4つ間があいている、という意味)
    を危険スジと想定する読みを、『あいだ四間読み』というのである。

    あいだ四間を構成する数字の捨て牌(2種)と危険スジの関係は
    以下のようになる。

    1と6が捨て牌⇒25が危険スジ
    2と7が捨て牌⇒36が危険スジ
    3と8が捨て牌⇒47が危険スジ
    4と9が捨て牌⇒58が危険スジ

    『あいだ四間』読みの実戦テキストとして、
    ハンゲでおこなったあらまあーのゲームに面白いものがあったので、
    紹介しておく。

    ハンゲの上級者ロビー、オーラス。
    34800でわずかにあらまあーがトップ、
    3位の24500点持ちのプレイヤーからリーチがかかった。
    オーラスのオヤリーである。モチロン一発逆転の可能性は十分にある。
    その時点で北家のあらまあーは逃げの態勢に入っていた。

    (4)(5)(7)(7) 345{C} 九九九{P} 中中中{P}
    ドラは南。5ピンは赤牌である。
    このテンパイになったのが7巡目。
    ところがこの3・6ピン待ちがなかなか出ない。(;^_^A アセアセ・・・
    そうこうするうちに11巡目、オヤリーである。捨て牌は・・・・

    北・西・白・9・一・(3)・六・5・東・(8)・南{リーチ}

    読みづらいリーチである。
    ここのテーマに沿って『あいだ四間』読みでいくならば、
    マンズなら二・五マン、ピンズなら4・7ピン、ソウズならば『5の裏スジ』で
    1・4ソウというところか。
    しかしトップ目のあらまあーとしては、ここはベタオリできない。
    手牌が4枚なので確たる安全牌がないことと、ベタオリしてツモられたら
    2600オールでトップが逆転してしまう点差である。
    で、ここは、ある程度待ちをしぼって向かっていかなくてはならない。
    あらまあーはこの親リーを、
    マンズなら二・五マン、
    ピンズなら4・7ピン、
    ソウズならば1・4・7ソウのスジ、
    それ以外は全部向かっていくことに決めた。
    しかも自分のアガリ牌の3・6ピンはリーチの現物でもあり、
    触手をそそられるところである。
    このリーチに対して2着の南家が一発で2ピンを勝負した!
    ドラの南をアンコにしての勝負か?
    俄然、場は緊迫ムードとなった。
    あらまあーは現物の東を1発でツカみ、モチロン、ツモ切り。
    12巡目、4ピンをツカんで、はてさて困ってしまった。
    (4)(5)(7)(7) 345{C}九九九{P}中中中{P}
    {ツモ⇒(4)}
    このままツモ切り勝負か? はたまた別の牌を切るか?
    別の牌といっても手牌は4枚しかない。
    トップ目でいかに逃げ切りたいとはいえ三副露(フーロ)もしてしまったことを
    悔いている場合ではない。
    とにかくここはどうにか対処しなくてはならないのである。
    4・7ピンを危険スジのひとつと読んだ以上、切りたくはない。
    自分が危険と読んだ牌でアタルのであれば
    ほかの牌を切ってフリ込んだほうがまだましである、
    という考えのあらまあーにとっては、
    この4ピンは切りたくない。
    そこで南家が勝負した2ピンに注目、リーチの捨て牌に8ピンがあるので
    2・5・8のスジで5ピン切りを選択した。
    もちろんハンゲの場合赤牌(5ピン・5ソ・五マン)があるので、
    この5ピン待ちもないとは言い切れない。
    が、ここは自分で決めた危険スジの牌は意地でも捨てたくないと思い、
    打5ピンを選択。ロンの声はなし。
    (4)(4)(7)(7) 345{C} 九九九{P} 中中中{P}
    シャンポン待ちの4・7ピンというブサイクな形になってしまった。
    次巡、八マンを引いてきて、勝負!ツモ切りした。
    そして13巡目、なんと7ピンをツモ!
    なんとかトップで逃げ切ったのだが・・・

    後日、牌譜再生ロビで対局を再現すると・・・・
    これがなんとも、納得できる内容であった。
    オヤのリーチは、
    三三 四五六 (5)(6) 456 888
    4・7ピン待ちの4ピン高め、
    もし4ピンを勝負すれば18000の出費で
    一気に奈落の底へ転落であった。
    また2ピンを勝負した南家の手も自風牌・南のドラがアンコで
    トップ逆転の手のイーシャンテンであった。
    きわどいアガリでトップを拾ったものの、いま見返すと冷汗ものでもある。

    上記の例は、読みがぴったり決まった例であるが、
    そううまくはいかないことも多々ある。
    前回の(1)でも述べたが、待ち読みとは、
    可能性のひとつをたぐることであり、
    麻雀が勝負事である以上、
    いつも100%正しく的中する読みなどというのは存在しない。
    それが「ある」などと言う人がいたとしたら、その「主張」自体、
    シルクハットの中からハトが出ますよー、という類いの話である。(w)


    {5}

    (E)数牌のアンコ切りは(あるいは、アンコ牌のスジは)よくアタる

    基本的な確率論で考えてみよう。
    自分が同じ牌をたくさん持っている場合、たとえば・・・・
    二三(2)(2)(5)(5)(5)34578白
    あなたの手が上記のようなイーシャンテンであったとする。
    一四マンを引けば69ソウの待ちに、
    69ソウを持ってくれば一四マンの待ちになる。
    どちらを先に持ってくるかは、わかるはずもない。
    ところが、これにもうひとつ条件を加えてみよう。
    もうひとり、別の人の手牌が、
    一一一四四四(3)(3)(4)55東南
    だったとしよう。
    よろしいですか? 
    麻雀の牌というものは同じ牌はそれぞれ4枚づつしかありません。
    つまり、一四マンという両面待ちだとしても、
    アガリ牌は最高で8枚までしかないわけです。
    一マンが4枚、四マンが4枚、計8枚までしかないのです。
    ここまで、よろしいですね?
    その8枚のうち、なんと6枚が別の人の手にあるわけです。
    残るは2枚だけ。したがって・・・・最初のあなたの手牌
    二三(2)(2)(5)(5)(5)34578白
    という手牌は、一四マンを引いて69ソウ待ちになるより、
    69ソウを先に引いて一四マン待ちになる確率のほうが高い、
    と言えますよね? あくまで確率的に、です。
    さて、案のじょう、69ソウを引いてきて、
    二三(2)(2)(5)(5)(5)34578白 {ツモ⇒6}
    即リーチ!
    あなたの捨て牌は・・・・・

    北・發・南・(1)・(9)・1・五・(8)・西・5・九・白{リーチ!}

    この場合、先に挙げたもうひとりの手の主、
    一一一四四四(3)(3)(4)55東南
    ↑この手牌を持った人から見れば、
    待ちの本線は一四マンであることが一目瞭然であるのは当然のこと。
    なぜなら、捨て牌から察するに、
    五の裏スジで、一四マン、5の裏スジで69ソウ、
    ピンズがあるとすれば、4・7ピン?
    そのくらいの読みは可能である。
    しかも自分の手には一四マンが合計6枚あるとすれば、
    このリーチの本命は一四マン、
    という観点で立ち向かっていくことになる。

    これは麻雀というゲームの本質上、
    組み合わせひと組の作り方が、
    八八八 東東東 發發發
    のような、3枚同じ牌揃いのコウツ(刻子)か、
    二三四 (7)(8)(9)  567
    のような同じ種類の数字続き札(牌)3枚によるシュンツ(順子)
    によるものという基本的なルールが要因となっていて、
    つまり、Aさんが
    34と持っていて2・5ソウが欲しい状態でも、
    Bさんが222と555とふたつのアンコを持っていれば、
    Aさんはなかなか25ソウをツモってこれない状況になる。
    あくまでも単純確率論で言えば、の話である。

    それゆえ、数牌をアンコで持っているとき、それは3人のうち誰かが
    欲しい牌であり、最終的にその牌の待ちになるであろう。
    したがって、『数牌のアンコ切りはよくアタる』
    という論法が(あくまでも確率的な観点から言えば)成立する。

    それでは、もとのあなたの手牌に戻るが、

    二三(2)(2)(5)(5)(5)34578白
    この手でなかなかテンパイできぬままツモ切りを繰り返すうちに、
    相手に先行リーチがかかったとする。
    捨て牌は・・・・・
    西・北・白・(1)・九・一・9・8・(6)・五・4・中{リーチ!}

    これを捨て牌とあなたの手牌から読む時、あなたはどう読むか?
    捨て牌の1ピンと6ピンに注目し、自分の手牌を見れば、
    ピンズなら25ピンというセンが、当然、読み筋として出てくるのである。


    もうひとつ例を挙げておく。
    Yさんは初級者に毛のはえた程度のプレイヤー。
    三四五(3)(4)(5)(6)(7)333中中 [ドラ:8]
    東1局の西家、こんな手でテンパイした。
    3面チャンだが、ドラもなく中がアタマ。
    いつもなら即リーチだが、1巡まわしてみることにした。
    すると、次のツモが、中!
    三四五(3)(4)(5)(6)(7)333中中 {ツモ⇒中}
    しめた、とばかりに、中をアンコにして3ソウのアンコ切りで、リーチ!
    ところが、この3ソウがオヤにアタってしまうのである。
    ロン、の声を出したオヤの手は・・・・
    九九12  一二三{C} (1)(2)(3){C} 789{C}
    三フーロの手で、ペン3ソウ待ち。
    ジュンチャン三色ドラ1でほぼ親マン(11600)だった。
    まさに、(→o←)ゞあちゃー 痛いフリコミである。
    なまじ1巡まわさずに即リーチに出ていれば・・・・・・
    と後悔しても遅い。
    しかし、しかしである。即リーチに出ずに中をアンコにしたとしても、
    このYさんの手は、冷静に考えれば、
    ほかにも選択肢があったはずである。
    自分の手ばかりに一生懸命にならずに
    このときのオヤの仕掛けに注意をはらえば、
    ???? 一二三{C} (1)(2)(3){C} 789{C}
    このオヤの手にフリ込む可能性のある牌といえば、
    1・2・3の三色を考えれば、
    Yさんの手からすれば、アンコの3ソウである。
    ましてジュンチャンがらみとなれば、和了点は安くはない。
    そう考えれば、
    三四五(3)(4)(5)(6)(7)333中中中
    この手から1枚切るとすれば、
    何もアンコの3ソウを切ることはないのである。
    3ピンを切るか、7ピンを切るかして、
    47ピンか36ピンのノベタンにすればいい。
    3面チャンにこだわることはないのである。

    「3ソウがアタリだったのは、たまたまさ。そんなの結果論だよ」
    ↑こんな無神経なセリフを吐く者に、麻雀のうまい人はいない。
    これは以前にも述べたが『結果論』というコトバの誤用であり
    拡大解釈であるに過ぎない。
    またこういう輩に、雀力の向上も雀士としての進歩もあり得ない。
    そこそこ楽しく麻雀を打てるであろうが、
    同じミス、同じ間違いを何度も繰り返す人である。
    これだけは断定できる真実である。
    アンコ切りでフリ込んで口惜しい思いをした人ならば、
    この『数牌のアンコ切りはよくアタる』という麻雀格言は
    噛み締めるべき教訓を含むところであろう。

    さて、ここまでがいちおうの「基本的な待ち読み」のマニュアルなのだが、
    さらにレベルとしては1段階上の読みと言っていいかも知れない
    『変則的な捨て牌』について
    述べてみたいと思う。・・・・・・・・・・・・・・・


    {6}

    (E)変則的な捨て牌について

    まず、『変則的な捨て牌』とはどのような捨て牌のことを指すのか?
    という点について述べてみます。
    たとえば以下の配牌から、
    一五六九(1)(3)(4)(8)67東北中 [ドラ:七]
    普通に手作りを進めていくとしましょう。
    東1局の北家とします。

    9ソウツモ・東打ち、9ピンツモ・中打ち、南ツモ・ツモ切り、
    九マンツモ・一マン打ちで、
    五六九九(1)(3)(4)(8)(9)679北
    と手牌は変化していきます。さらに・・・・・

    7ピンツモ・9ソウ打ち、西ツモ・1ピン打ち、
    五六九九(3)(4)(7)(8)(9)67西北

    すでに2(リャン)シャンテンの手になりました。
    ここではっきりしているのは、この手が明らかにピンフ形の手である、
    ということです。さらにツモ牌をたどっていきます。

    五マンツモ・北打ち、5ピンツモ・五マン打ち・・・・
    五六九九(3)(4)(5)(7)(8)(9)67西
    と、こうなりました。
    四七マン、58ソウのイーシャンテンです。
    ここでは『牌効率理論』からいけば五マンを残して
    五五六九九(3)(4)(5)(7)(8)(9)67
    と構えたほうが効率はいいに決まってますが、
    ここではこの打ち手は
    好牌先打で五マンを先切りし、安全牌の西を残して
    ピンフを確定させました。これもひとつの打ち方でしょう。
    七マンがドラであることを考えれば、
    脂っこい五マンを手に残すより、四七マンの受けを確実にして
    安全牌を手に残すのも、うなづける打ち方です。
    以下、3ソウツモ切り、發ツモ切りの後、
    待望のドラ七マンを引き入れ、
    五六九九(3)(4)(5)(7)(8)(9)67西 {ツモ⇒七}
    西を切って、即リーチ。11巡目のリーチです。

    五六七九九(3)(4)(5)(7)(8)(9)67 [ドラ:七]
    58ソウ待ちのピンフ・ドラ1、
    コドモのリーチですから、
    出アガリ3900、ウラドラ1枚あれば7700、という手です。
    ツモれば1300−2600(計5200)、ウラ1枚あれば満貫です。

    さて、このときの捨て牌相だが・・・・

    東・中・南・一・9・(1)・北・五・3・發・西{リーチ!}

    となる。この捨て牌相をよく見ると、
    東や中や南という字牌がまず先に捨てられ、
    次にハジっこの牌(1とか9)が捨てられ、
    それから真ん中の脂っこい牌が出てきていて、
    最後に安全牌らしい字牌(この場合は西)が出てきて、
    リーチとなっている。
    これが、ごく平均的というか普通の捨て牌相である。
    これは「変則的」でもなんでもないごく通常の捨て牌相であり、
    いわゆる『ピンフ系捨て牌相』である。
    意外と読みにくい捨て牌相でもある。
    いちおうあらまあーがこのリーチの待ち読みをすれば、
    五の裏スジの六九マンはドラもからみ、ここではマンズの本線、
    五のはずし時から言って、五がらみの三六マン、四七マンもあり得る。
    ソウズは、
    リーチ牌に近い終盤の3ソウをさりげなくツモ切りしている点から、
    3の内側の2ソウ、1ソウよりも、
    47ソウ、58ソウのラインが危険と見たい。
    ピンズは、現物の1ピン以外、正直言って全部コワイ。
    シャンポン・タンキなどの変則待ちはまずなく、
    リャンメン待ちのピンフ系リーチであろう。
    スジのひっかけがあるとすれば、(まず、なさそうだが、あるとすれば)
    ぴかぴか光る五マンのスジのカン八マン、
    一マンの早出からしてカン二マンのほうはまずなし。あれば仕方なし。
    と、凡(おおよ)その読みをするところである。
    そこで、この『普通の平均的捨て牌相』を、「通常型」とする。


    次にもうひとつ別の配牌例を挙げる。
    手牌の主は初心者のCさん、
    麻雀が楽しくてしょうがないという時期である。
    七七九九(3)(4)558西西北白 [ドラ:西]

    東1の南家、オタ風だがドラの西が配牌でトイツである。
    第一ツモ3ピンで早くもチートイツのイーシャンテンとなった。
    七七九九(3)(3)(4)558西西北白
    Cさんとしては字牌の待ちにしたいので北も白も切らず、
    第1打は4ピン!
    次巡、發をツモりこれを手に残して、8ソウ打ち。
    七七九九(3)(3)55西西北白發
    以下、あくまでも字牌で待ちたいCさんは、
    四マンツモ切り、五マンツモ切り、6ソウツモ切り、
    次巡、西家の捨てた白をオヤがポンしたので、白がいらなくなり、
    9ピンツモ・白打ち、
    以下、8ピンツモ切り、9ソウツモ・9ピン打ち、5ピンツモ切り、
    そして、10巡目に9ソウを引きテンパイした。
    七七九九(3)(3)5599西西北發
    さてCさん、場をキョロキョロ見回して、
    ション牌の發よりは場に1枚出ている北のほうで待ってやろうと考え、
    發を捨ててリーチ!
    七七九九(3)(3)5599西西北 [ドラ:西]
    チートイ・ドラドラの満貫リーチである。

    ところで、この場合の捨て牌は以下のようになる。

    (4)・8・四・五・6・白・(8)・(9)・(5)・發{リーチ}

    この捨て牌は先の「通常型」と見比べて、明らかに異なるものである。

    通常型(先の例)
    東・中・南・一・9・(1)・北・五・3・發・西{リーチ!}

    変則型(Cさんの捨て牌相)
    (4)・8・四・五・6・白・(8)・(9)・(5)・發{リーチ}

    通常型が、字牌、端牌、中トロ牌、という巡で切られているのに対して
    『変則型』は、いきなり、中トロ牌、それから字牌という不自然な順で
    牌が捨てられているのである。
    このCさんの捨て牌から予測できる手役は、ふたつ挙げれば、
    チートイツか国士無双である。

    さらに3例を挙げて検証する。
    {あ}は通常型、{い}・{う}は変則型の捨て牌相である。
    以下の捨て牌相を見比べれば、通常型と変則型の違いは
    一目瞭然である。

    {あ} 北・九・中・(2)・1・六・西・8・9・(8)
    {い} (4)・(2)・六・七・2・4・(5)・7・二・南・九・北
    {う} (8)・九・(5)・(3)・八・一・白・北・2・東

    {あ}は、典型的な通常型、ピンフ系捨て牌といえる。
    ただ、タンピンなのか、ドラはあるのか?三色含みなのか?
    までは、この捨て牌のみでは
    もちろん推理できない。
    一四七マン、二五八マン、369ピン、47ピン、25ソウ、36ソウ、47ソウ
    のうちから、否定された待ちスジ(誰かが勝負して通したスジ)を
    消去していく以外にないであろう。
    もちろん場の状況、自分の手牌も含めて、検討することになる。

    {い}は、先のCさんの捨て牌同様、
    典型的なチートイツまたは国士無双系の変則型捨て牌である。
    ただ、配牌では国士を狙っていたが、
    変化して、チャンタ三色系を狙う手に変わっていたり、
    ホンロウトイトイやチートイツへの変化もあり得る。
    また、露骨(ろこつ)に国士を狙っていると見せかけ、
    相手を焦らせて1・9字牌を先切りさせ、実は・・・・・
    一二三(1)(2)(3)12789白白
    というチャンタ三色系だったりすることもあり得る。

    {う}は、染め手系(一色系=ホンイツ・チンイツ)の捨て牌である。
    ソウズ以外の中トロ牌が序盤からバタバタと切られ、
    あとから字牌が出てくる。この場合は2ソウも余ってきているので要注意。
    すでにメンゼンでテンパイしているかも知れない。
    ちなみに、実戦では、この捨て牌の主は、
    12356778899中中 [ドラ:中]
    というすごいテンパイをしていた。4ソウなら、出てヤミテン倍満である。

    このように変則的な待ち、手作りには、
    捨て牌にそのニオイが表れるものである

    これら『変則型捨て牌』が捨て牌相として顕著に現れるのは、
    上記の例として挙げた
    チートイツ、チャンタ系、一色(ホンイツ・チンイツ)系、国士無双
    などであるが、
    これらに関しては次回にもう少し詳しく述べてみたい。
    またハンゲや東風荘やインフォシークの実戦例から、
    捨て牌と待ち形の関係についてさらに叙述していきたいとも思っている。
    このテーマは研究し出すときりがなく、けっこう奥が深いので、
    まだまだ語り足りないところはあるが、
    今回までが、いちおうの『待ちを読む』場合の基本事項
    と思っていただければ幸いです。

    次回(3)では、実際の過去のゲームにあった捨て牌相の例を挙げて、
    ご一緒に検証していきましょう。・・・・・・・・・・

                                 (つづく)
    ----------------------------------------------------------------------------
    あらまあーのリアル打ち奮闘記
    (冬の陣・その1=プレビュー)


    はじめに

    今回は夏に出会ったネットの物好きたちが(爆!)冬にも再会し、
    つつましくリアル麻雀をおこなったその日々について
    述べようと思っています。
    今回は12月13日から15日までの三日間の全体スケジュールを
    かいつまんで紹介し、ひとつひとつのエピソードについては、
    次回の(その2)以降に語ろうと考えています。
    言うならば今回は予告編バージョンです。 ・。・


    ちょっと無理じゃない? つうスケジュール ・。・

    中山競馬場に行ってその日の夜に池袋でリアル打ち大会をおこない、
    翌日どこかの牧場に行こう!
    というのは、そもそもひとみちゃんのアイデアだった。

    競馬場に行ってリアル競馬をしてその日の夜麻雀くらいならこなせるが、
    問題は翌日の『牧場』だった。
    なぜ牧場なのか?と言えば、それは単純なひとみちゃんの動機だった。
    阿蘇牧場、高千穂牧場など牧場の好きなひとみちゃんにとっては
    「どこの牧場にもあるはずのソフトクリームが食べたかったから」
    というのがその動機であった。
    (゜゜;)\(−−;)オイオイ ナニイッテンダヨ
    自称ソフトクリーム評論家のひとみさんにとっては(爆!)、
    どこか関東の牧場でソフトクリームを食べてみたいというのが希望だった。
    そこで、トヨヤスくんがネット検索で探し出したのが、
    『成田ゆめ牧場』だった。
    いま思えば、よく行ったなあ、
    と思えるほどのハードなスケジュールだった。


    アタリ馬券なし、の、あらまあー(爆!)

    2003年12月13日・土曜日・午前、
    トヨタのヤスくんが彼の運転するクルマであらまあー宅に到着。
    トヨヤスくんとあらまあーは一路、羽田空港へと向かった。
    福岡からやって来るひとみさんを迎えに行くためである。
    ひとみちゃんを乗せてそのまま中山競馬場に直行、
    リアル競馬を楽しもうという算段である。
    群ちゃん(群龍さん)も参加の予定だったのだが
    仕事の都合で無理になり、3人での競馬観戦となった。
    ひとみちゃんもヤス君も夏のままだった。
    ただ一人、あらまあーが季節はずれの日焼けをしていた。
    半年ぶりに再会した3人は、ヤス君の運転するクルマで
    中山競馬場(千葉県)へと向かった。

    同日・午後1時過ぎ
    中山競馬場付近の有料駐車場にクルマを止め、
    3人は競馬場へ!。
    7レースから、勝負が始まった。
    途中、携帯で群ちゃんが馬券勝負に参加したが、結局ハズレ、
    トヨタス君、ひとみちゃんが的中し、
    10レースの終わる頃にはアタリ馬券を持っていないのは、
    あらまあーだけとなった。 ・。・
    ( ̄。 ̄;) ちぇっ
    夕刻の池袋の集合時間に間に合わなくなるので、
    3人はメインレースを見ずに車上の人となった。

    同日。夕刻
    コイズミ総理も来たことがあるという池袋の回転すし屋「海幸の街」
    に、リアル打ちメンバーが集まった。
    千社札さんの都合が悪くなり急遽参加した★白虎王★さんは、
    あらまあーの実の甥である。
    群ちゃんも忙しい中、時間を割(さ)いて、店にやって来た。
    雀帝さんはRENコンでちらとお見かけしたのだが、
    すいす♪さんの恋人ブルドッグさん、アライさんは初対面だった。
    キシボンさんはすし屋には顔を見せずに直で雀荘に向かっていた。
    楽しい歓談のひとときを過ごした後、一同は夢の戦場へと向かった。
    リアル麻雀大会である。

    絶好調のbulludogさん!

    いざ開戦。あらまあーはホスト役に徹することを決めていたため、
    やはり対局に集中することはできず、3位、3位のスタート。
    予選5試合のトータルで上位4名に入って決勝に勝ち残るのは
    困難な状況であった。言いわけがましくなるが、寝不足もあり、
    体調も、勝ち残りたいという意欲もいまいちで、
    かなりひどい麻雀を打っていた。
    また5試合全体を通して、勝機はまったくなかったようにも思う。
    ツキにも見離されていた。
    やはり日頃のおこないが・・・・って、オイ!(▼▼メ)wwwww
    対照的にブルドッグさんは絶好調、
    アライさんは物静かな紳士だったが雀力はかなり高い、と見た。
    また、あらまあーの甥っ子★白虎王★が好調で、
    決勝勝ち残りの上位4名に残るかと思われた。
    しかし、最終戦・第五試合でキシボンさんに逆転され、
    決勝勝ち残りは、ぶっちぎりのトップbulludogさん、アライ☆さん、
    トヨタのヤスさん、kishibojinさんの4名となった。
    決勝3試合でも、ブルさんの調子は衰えず、
    結局独走態勢のまま、ブルドッグさんが優勝した。
    準優勝はアライさんとなった。
    途中、最高位を獲得したばかりの飯田正人プロが
    陣中見舞いに覗いてくれたりした。
    これはすべて、すいす♪さんの人脈のタマモノである。
    ひとみちゃんが例によってヨッパラってダウンし(キミは女群龍か? 爆!)
    予選最終試合を途中から顔を見せたいなださんと交代した。
    いなちゃん、今回も忙しい中、覗いてくれてありがとう!

    群ちゃんがエキビジョンゲームでチョンボした。(爆!)・。・
    キシボンさん、雀帝さん、トヨヤスくん、あらまあーの四人は
    大会終了後も、朝までエキビジョンゲームをおこなった。(爆!)
    ↑まっこと、好きなんやのう麻雀が。。wwww
    これらのエピソードは次回以降に詳しく紹介することにしよう。


    眠いの通り越して頭の上でチョウチョが・・・(爆!)

    さてこの場を借りて、今回時間を割いて参加してくれた
    キシボンさんにお礼を言いたい。m(_ _)m アリガトォ
    彼は、やっぱりダンディで、すらりと背が高く、
    穏やかな語り口で話す紳士だった。
    ひとみちゃん曰く、「キシボンさん、カッコよかったねぇ」
    ひとみちゃんの男性評に間違いはない。(爆!)・。・
    トヨヤスくん、雀帝さん、あらまあーとキシボンで朝まで打ち、
    やがてホテルから起き上がってきたひとみちゃんを交えて
    池袋駅付近のファーストフード店で、コーヒータイム、と相成った。
    一同しばし歓談。雀帝さんの素敵な話しぶりにはあらまあーも感動!

    そして、そして・・・・・・
    恐怖の時間はここから始まった!
    成田ゆめ牧場へこのまま出かけるのだ! (→o←)ゞあちゃー
    なんと雀帝さんも牧場への参加を快諾してくれた。
    そして、なんと、雀麗さんもご一緒に・・・・(*ノノ) キャーー!!
    インフォシークのベストカップルを(w)
    この目で見れるチャンスが到来したのである。
    そして池袋でキシボンと別れ、
    あらまあー、トヨヤス、ひとみ、雀帝の4名は
    トヨヤスくんの運転するクルマで一路千葉県市川市の雀帝宅へ。。。
    雀帝さん雀麗さんの印象、ゆめ牧場でのエピソードも次回に
    たっぷりお話ししましょう。
    とにかく眠かった。
    眠いのを通り越して頭の上ではチョウチョが飛んでいました。(爆!)


    最後の日は例によって、ひとみちゃんと映画

    ひとみちゃんの飛行機の関係で今回は銀座まで出向く時間もなく、
    上野駅構内に新しくできた飲食店街の『回転中華』屋さんで
    昼食をとり、そのまま上野で映画を観ることにした。
    ( ̄x ̄;)ウッ ! な、なんと・・・・・・
    その『回転中華』屋にも、ライチ酒があったのだ。
    ひとみちゃんがそれを見逃すはずもなかった。(≧∇≦)ノブハハハ!!
    上映時間の関係で
    雀帝さんオススメの「ラスト・サムライ」を観ることが不可能となり、
    「バッドボーイズTOOバッド」を観た。
    しかしながら、今回は不覚にも、ひとみちゃんではなく
    あらまあーが映画館の席で、こっくり、こっくり・・・・
    くそおおおおおおおおおお^^;

    浜松町からモノレールに乗って羽田に。
    ひとみちゃんを見送った。
    またも、一人になると・・・・・
    おもしろうて やがて 悲しき 祭りかな
    そう、宴のあとは、やはり寂しく物悲しいものである。

    これらのエピソードは、次回から皆さんにお伝えしていこうと思います。
    今回はこれにて! m(_ _)m ・・・・・・・・

    ----------------------------------------------------------------------------

    寄稿;
    改定版・あらまあー風トキワ荘考察


    序:東京都内にいまだ存在する聖地

    トキワ荘、
    ―――――そのアパートは、東京都豊島区旧椎名町にあった。
    手塚治虫がまずそこに下宿した。
    手塚自身は関西の宝塚に実家があり、
    東京で仕事する場としてこのトキワ荘の部屋を借りていたのである。
    出版社に近いというのも利点だったのだろう。
    手塚治虫がすんでいた当初は、
    漫画家はお向かいに住んでいた寺田ヒロヲだけであった。
    寺田は学童社の「漫画少年」に掲載されていた手塚の『冒険宝島』
    を見て影響を受け、自らも漫画家になることをめざしていた。
    のちに手塚治虫の部屋を、
    藤子不二夫(藤本弘・安孫子素夫)が
    譲り受けて住むようになる。
    この二人も手塚の漫画を見て影響を受けた者たちであった。

    その頃から漫画家が住み始め、
    石森章太郎(のちの石ノ森)、赤塚不二夫など
    若手漫画家の住むアパートとなった。

    この『奇跡を生んだアパート』は老朽化のため十数年前に取り壊され、
    現在は跡形もない。
    私がなぜ今さらこのトキワ荘に興味を持ったのかというと、
    ここがある時代の『聖地』であり、
    現在もまだ『聖地』だからである。


    一:アトリエ村からトキワ荘へ

    いまだかつて
    『トキワ荘』と『長崎アトリエ村』とを結びつけて考えた人はいないし、
    モチロンのこと、そういう文献もない。

    1930年、大正デモクラシーの時代にモダニズムの流れの中、
    東京都豊島区長崎を中心にして若手気鋭の芸術家たちが
    ここの借家群(長屋)にアトリエ村を形成した。
    住宅は赤いモルタル瓦に木壁で北側が15畳くらいのアトリエになっており、
    大きな窓とトップライト(天窓)があるモダンな家だった。
    住居分は3〜4畳半1室、家賃は当時13円〜22円程度である。
    その中で最大規模の『さくらが丘パルテノン』と呼ばれた
    長崎2丁目の地域には
    絵画や彫刻を学ぶ学生集団が自炊をしながら創作活動をし、
    あるときは池袋の喫茶店や酒場などで芸術論を戦わせ
    未来の熱い夢を語り合っていたという。

    ちょうどヨーロッパで芸術革新運動が起こり、
    その流れが日本にも影響していた時代であった。
    いわば(当時で言うところの)第2次ルネッサンスの潮流の中で、
    自分たちの手で何かを生み出していこうとする情熱的な若者たちの
    多く登場した時代であった。

    しかし、世界における日本の情勢は、
    そうした芸術家たちの卵の存在を決して喜ばしく思わぬ状況であった。
    日清・日露の戦勝により、日本は中国大陸に進出し、
    大陸運営をどう行なうか、が政治上のテーマであった。
    そうした中、日本の世相は時代に軍事色を強め、
    芸術の分野でも制約が加わってきた。

    制約はやがて「弾圧」となり、
    街には軍靴の音が響きわたるようになると、
    アトリエ村の住人たちの多くも召集、疎開などで散り散りとなり、
    また太平洋戦争勃発後は度重なる空襲などで、
    この村の自由な雰囲気はしだいに失われていったのである。

    やがて日本は敗戦、
    大東亜戦争は終焉し、
    「戦後」と呼ばれる時代が到来するのである。
    昭和20年代、焼け跡のニオイの残る中、
    東京の街はめざましく復興していった。

    トキワ荘は、
    旧椎名町5丁目(現南長崎2丁目)に1952年に建てられた。
    木造モルタル2階建板敷き4畳半、家賃3,000円のアパートであった。
    このアパートに1953年から1961年までの間に、
    手塚治虫を中心に、寺田ヒロオ、藤子不二夫、石森章太郎、
    赤塚不二夫、鈴木伸一
    角田次郎(=つのだじろう。近所の実家から覗きに来ていた)など、
    10数人が住み、彼らの仲間が出入りしていた。
    出入りする漫画家のタマゴたちの中には、
    やがて昭和40年代に一世を風靡するつげ義春もいた。

    これは、ほかの分野では前例のない
    画期的で奇跡的な事実である。
    『のちにその分野でトップクラスの活躍をする者たちが
    かつては同じ場所に居住していた』
    などというのは、類のないことである。たとえば、
    「無名時代の長嶋茂雄や王貞治や村山実や江夏豊が、
    あるいは、イチローや松井が、
    かつては同じアパートに居住していた』
    などということは、常識的にはあり得ないからである。

    この「トキワ荘」と「長崎アトリエ村」とを結びつけるモノは何もない。
    しかし、
    戦前のある時代にここに情熱的な芸術家の卵が集まっていたこと、
    戦後まもなく建てられたトキワ荘という場所に
    多く漫画家をめざす青年たちが集まったこと、
    また現在も、近辺の江古田や東長崎に多くの漫画家のタマゴたちが
    借家住まいをし、そこから多くの新進漫画家が輩出されていること、
    それらの事実を鑑(かんが)みると、
    この場所には才能ある若い人たちを呼びつける
    何かがあるのかも知れない? 
    と思えて仕方がないのである。

    その「何か」とは、決して『家賃が安い』などという物理的要因ではない。
    言うならばこの地域は、かつてのソーホー地区であり、
    グリニッジ・ビレッジであり、カルチェ・ラ・タンであり、
    セーヌ左岸である。
    つまりこの地域は、
    才能と情熱の溢れた若者たちの
    『聖地』・『聖域』なのである。


    ニ:新漫画党の面々

    寺田ヒロヲという漫画家がいた。
    「背番号0(ゼロ)」「暗闇五段」「スポーツマン金太郎」
    などの作品で有名な漫画家で、現在は故人である。
    彼のトキワ荘時代を回顧した著作の中で、
    彼はこう述懐している。

    『その頃の僕は、
    ようやく一人暮らしに慣れはじめたものの、
    まだ漫画家としてやっていけるかどうか、
    皆目わからなかった。
    学童社の片隅にいつも置いてあった返本の山、―――――
    「漫画少年」は、
    敗戦後の日本の少年少女たちを励ますような、
    売れない漫画家の僕にとっても、
    希望の光のような存在だった。・・・』

    「漫画少年」は
    戦後間(ま)もない時代に刊行されていた子供向け漫画雑誌であり、
    一般読者からの投稿漫画の中から採用された作品を掲載し、
    規定の稿料を支払う、という画期的な漫画誌であった。
    手塚はこの「漫画少年」からデビューし、売れっ子漫画家になっていた。
    寺田もまた、採用されたりされなかったり、
    という日々が続いていた。

    「漫画少年」の投稿仲間には、
    (やがて都内の実家の床屋からスクーターに乗って
    トキワ荘にかよいつめることになる)つのだじろうが、
    赤塚不二夫が、
    石森章太郎が、そして、
    藤本・安孫子(藤子不二夫)の合作コンビが、いたのである。

    ある日の昼下がり、寺田が共同炊事場でお湯を沸かしていると、
    ツメエリの学生服姿も初々(ういうい)しい二人の若者が上がってきて、
    手塚の部屋の前で、何やらひそひそと囁きあっている。
    「手塚先生なら、出かけてるよ」と、寺田が声をかけると、
    二人の若者は廊下に正座して寺田に丁寧に頭を下げた。
    事情を聞くと、彼らは手塚のところに弟子入り志願に来たという。
    寺田は二人を自分の部屋に招き、お茶を出してやった。
    彼らもまた「漫画少年」の投稿者だった。
    寺田は彼らのペンネームを聞いて驚いた。聞き覚えがあったのだ。

    「へぇ〜〜、知らなかった。
    藤子不二夫って二人の合作ペンネームだったんだ。。。」

    安孫子と藤本は恐縮した表情で、はにかむように頷いた。
    寺田はその日、
    二人に夕食をふるまい、(寺田得意のキャベツ炒めである。)
    彼らをひと晩自分の部屋に泊めてやることにした。
    暗い天井を見つめながら雑魚寝(ザコね)する3人の会話。

    安孫子『東京って僕らでもやっていけますかね?』
    藤本『お金は、どのくらいかかるものなんですか?』

    寺田『ここの場合はね、部屋代が3千円、
    電燈水道ガスが、共同なんだけど、500円くらいかな。。。
    新聞は漫画のアイデアにもなるから、とったほうがいいかも知れない。
    これが330円。。。』

    安孫子『食費は、どれくらいかかるんでしょうか?』

    寺田『・・・・・・・僕の場合、月4千円から5千円くらいかな?
    二人なら、自炊すれば、7千円くらいかな。。。』

    当時の物価が手に取るようにわかる会話である。


    やがて、売れっ子になった手塚が別の場所に移り、その部屋に、
    まだ高校を卒業したばかりの藤本・安孫子が入った。
    これを機としたかのように、続々と「漫画少年」の投稿仲間たちが、
    このアパートに入居してくるのである。
    石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一など・・・・・・である。

    寺田はこの『漫画家青年』たちの兄貴分的存在であった。
    あとから入居してきた者たちは、
    寺田の作品批評や漫画論に耳を傾けた。

    手塚も、転居したのちも、ちょくちょくこのアパートを訪れ、
    自分の後に入居した藤本・安孫子の面倒をよく見ていた。
    手塚は、この二人に経済的負担がかからぬようにと、大家に頼んで、
    敷金・礼金なしで自分のあとを継続してこの二人が住めるようにと計らい、
    部屋を譲ったのである。
    また仕事が忙しい時は、
    アルバイトとしてこの二人をアシスタントとして雇った。
    『ジャングル大帝』の最終回を藤子不二夫が手伝ったことは
    有名なエピソードである。
    これは、手塚がこよなく漫画というものを愛し
    志を同じくする後輩たちを大事にしていたからこそ
    できる行為であった、と言えよう。

    トキワ荘の漫画青年たちは週に何度か夜に寺田の部屋に集まり、
    トキワ荘名物チューダーを飲みながら、熱っぽい議論を戦わせた。
    チューダーとはショウチューのサイダー割りである。
    肴はモチロン寺田お得意のキャベツ炒めの醤油かけ。

    この集まりが、やがては『新漫画党』の結成に繋がるのである。
    新漫画党の最初のメンバーは
    言うまでもなくトキワ荘の住人たち、
    寺田ヒロヲ、鈴木伸一、藤子不二夫、赤塚不二夫、石森章太郎、
    角田次郎、森安直哉などの面々であった。
    手塚治虫はすでにトキワ荘を離れていたが、彼らの意気に賛同し、
    名誉党員的な扱いで名を連ねていた。

    週に何度か寺田の部屋に集まって意見をかわす漫画青年たち。
    チューダーを飲みキャベツ炒めをつまみながら語り合う
    若き日の石森、赤塚、角田、安孫子、藤本、鈴木、森安・・・・・・
    彼らの瞳は輝いていた。

    すでに藤子不二夫は学童社の連載が決まり、
    石森も少年月刊誌に連載し始めた『テレビ小僧』が
    爆発的な人気を得ていた。
    新漫画党の船出は順風満帆のように見えた。

    しかし、まもなくして、彼らにショッキングなニュースが飛び込んでくる。
    なんと、漫画少年を刊行していた学童社が、倒産するのである!


    三:散り散りになっていく盟友たち

    トキワ荘を語るにおいて、
    ある一人の女性の存在を忘れてはならないだろう。
    彼女はトキワ荘住人たちのマドンナ的存在であった
    『石森章太郎の姉』である。
    ご本人はすでに他界されているので、ここではあえて実名を記さず
    『石森の姉』とする。

    石森の姉はときどき暇を見ては故郷から上京し、
    トキワ荘に弟の世話を見にやって来ていた。
    周囲の部屋の住人たちに「オトウトがいつもお世話になっています」
    と丁寧に挨拶し、手土産を忘れず、
    また徹夜で仕事をしていた漫画家には朝食をふるまったりする
    面倒見のいい姉御様であった。
    容姿は色白でほっそり型、目鼻立ちのくっきりした美人であった。
    漫画家のタマゴたちの中には彼女のファンも多く、
    トキワ荘には住んでいない漫画青年連中も、
    「石森の姉が来ている」というニュースを耳にするや、
    用事もないのに石森の部屋を覗きに来たりしていたそうである。
    弟思いの優しい姉であり、漫画家のタマゴたちのマドンナでもあった。
    しかし彼女は病弱体質であったらしく、やがては、肺炎をこじらせ、
    帰らぬ人となる。
    結婚も出産も経験しないまま若くしてこの世を去った『石森の姉』、
    彼女こそトキワ荘の青年たちの永遠の女神であり、
    美人薄命を地でいった女性であった。

    さて、話を戻そう。

    学童社の倒産は、
    新漫画党のメンバーに衝撃を与えるに充分な出来事であった。
    彼らの生計のよりどころであった『漫画少年』が消滅したのである。
    アテにしていた原稿料ももう受け取れないかも知れない。
    このショッキングな事実は、
    彼らそれぞれ一人一人に新しい道を提示しているかのようであった。

    かつて語り合う夢が皆どこか似ていた若者たちも、
    やがては月日の流れが、それぞれの進路を変えていく。
    これは避けられないことであった。

    森安直哉は牛乳配達のアルバイトをしながら漫画を書き、
    あちこちの出版社に原稿を持ち込んでいた。
    彼の書いたメルヘンチックなタッチの作品を寺田は絶賛したが、
    結局、学童社の倒産以後はどこの社にも採用されることがなく、
    森安は、自ら筆を折り、故郷に帰っていった。

    鈴木伸一は漫画執筆からアニメ(当時で言うところの「動画」)制作
    への転進を決意し、トキワ荘を去っていった。

    石森章太郎はすでに売れっ子漫画家として何本もの連載を抱えていた。
    アシスタントには赤塚や、藤本・安孫子両名がよく駆り出されたが、
    藤子不二夫が売れっ子になってからは、
    当時はまだほとんど無名の駆け出し漫画家・水野英子などが
    泊まり込みで手伝いに来ていた。

    赤塚不二夫は、石森や藤子のアシスタントなどを行ない
    そのアルバイト料で生計を支えていたが、
    やがて月刊誌に連載が決定した。
    『ナマちゃん』でデビューしたこの赤塚不二夫なる漫画家が、
    『ひみつのアッコちゃん』や『おそ松くん』でその名を世間に広く知らしめ、
    やがては「ギャグ漫画の帝王」と呼ばれるまでには、
    まだかなりの時間があった。

    藤子不二夫はすでにその頭角をあらわし始め、
    新進売れっ子漫画家として、いくつかの連載物を手がけていた。
    『オバケのQ太郎』が全国の子供たちの人気者になるまでには、
    それほど時間がかからなかった。

    寺田ヒロヲは「少年サンデー」に連載中の『スポーツマン金太郎』が
    好評を博し、周囲からは
    彼の漫画がやっと軌道に乗ったかに見えていた。
    しかし彼の描きたいものと出版社の求めるものにはかなりの差があった。
    いつも子供たちのことを考えて、漫画を描きたい―――――
    これが寺田の持論であった。
    寺田は自分の作品に満足していなかったのである。
    彼の世に出た作品は出版社側との妥協の産物であった。

    映画「トキワ荘の青春」(市川準・監督、本木雅弘・主演)
    のラストシーン、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    出版社の意向と自分の書きたい漫画とにギャップを感じていた寺田が
    漫画家をやめることを決心し、アパート付近の川原に立って
    川べりのグランドで野球の練習をしている少年たちを眺めている。
    ボールが飛んでくる。
    本木ふんする寺田ヒロヲがボールを取って投げ返してやる。
    ボールをグローブで受け取ったユニフォーム姿の少年が
    丁寧に「ありがとうございました!」と帽子を取ってペコリと頭を下げる。
    微笑ましげに見送る寺田。
    と、背を向けた野球少年のユニフォームの背番号が、「0」である。
    感慨深げに見送る寺田。
    画面フェイドアウトし、真っ黒になる。
    真っ黒な画面に寺田のモノローグ(独白)がダブる。
    『ある冬の寒い朝、僕はそのアパートを後にした。・・・・・』


    寺田ヒロヲの墓は、彼の郷里、新潟・湯田上にある。


    四:なぜ、『漫画青年』なのか?

    近代の日本社会の中で、長いあいだ『文学青年』というものが
    ある独特の位置を占めてきた。

    文学青年とは、簡単に言えば、
    小説家志望か詩人・劇作家などを志望して勉強をしている若者、
    ということになる。

    しかしながら、日本の長い封建時代
    もしくはその名残りの根強く残っていた時代において、
    『小説や詩なんぞ書いていても金にはならない。
    そんなことをしている奴は生活力のないロクでもない奴だ!』
    という一般的な通念があった。
    近代においても、明治・大正の時代を通じて
    そうした考え方がまかり通っていた。
    それは、音楽や絵をめざす若者たちに対してもそうであった。

    それゆえ、
    小説家や詩人や音楽家や画家をめざす芸術志向の若者たちとは、
    金銭的な成功や社会的な成功をめざすのではなく、
    ただただ自己を表現し人間や社会についての真実を語りたいという
    そうした欲求のためにのみ精進する若者たち、と見られた。
    したがって、そこに、一種、
    俗世間的な目から見れば「軽蔑」の対象であり、
    反俗的基準からすれば「畏敬」の念を持って見られる、
    というような、
    ひとつの「生き方のタイプ」が成り立ったわけである。
    オーバーな表現を借りれば、
    芸術志向の青年とは一種の『探求者』・『求道者』を意味していた
    とも言えるのである。

    もちろん今日でも小説家や詩人をめざす人の数は多く、
    中には旧式な典型的「文学青年」タイプもいるであろう。
    いくら時代が変わったからといってそういうタイプの若者が
    いなくなるはずもないのである。
    しかし、昔と今とでは決定的に違うのは、
    テレビを始めとするマスメディアの発達によって、今日的には、
    文学業は必ずしも経済的に不利な職業とは言えず、
    また社会的にも、
    小説家や詩人は相当な尊敬を受ける立場となっている。
    であるから、文学青年であるということは、かつてのように、
    『メシは食えなくてもひたすら自己を表現し人間や社会の
    真実を語るためにそれに執着する』
    という意味合いのことでは、現在では、なくなってきているのである。

    それでは、―――――それでは、
    かつての文学青年のような存在は、現在ではどこへ行ったのか?
    一般の常識や通念に惑わされずに
    あくまでも自己の価値観に忠実に
    表現活動をおこなおうと欲する若者たち、―――――――
    私の印象で言えば、それは現在は、
    一部は漫画家志望の青年たちの中に、
    また一部はミュージッシャンをめざす青年たちの中に、
    いるような気がする。
    「音楽青年」のことはここではひとまず置いて、マンガに話をしぼると、
    今日においては、漫画家が売れっ子になって単行本が売れれば、
    経済的にも荒稼ぎができるボロイ商売となっているし、
    その点では、ベストセラー小説家と変わりがないのである。
    が、しかし、そのような経済的な成功を夢見ることなく、
    ただ書きたいものがある、書かなくてはいられぬ欲求があるから書く、
    という意味において黙々と精進し活動する若者が多いという点では、
    現在では確かに漫画家志望の青年のほうが小説家志望の青年を
    凌駕(りょうが)する勢いだ、という印象が強い。

    いまや第1線で活躍する漫画家たちは
    経済的にも成功している者が多く、社会的認知度も高い。
    ベストセラー小説家とその点においては大差がない。
    しかしそれは、
    実業家が自分の投資したビジネスで経済的利益を上げるというような
    『金銭的成功』が当初の彼らの目的ではなく、
    マンガを描くこと自体が、前述の通り、彼らにとって、ひとつの
    「求道的」かつ「探求的」かつ「創造的」な行為であったからであり、
    彼ら自身がそうした行為に魅せられ、
    彼ら自身の欲求として創作行為をおこなった、その結果としての産物が
    社会的・経済的な成功だ、と見るのが自然であろう。

    なぜ小説家でなく、漫画家になりたいのか?
    子供のときからマンガが好きで、絵を書くのが好きだった、
    文章表現よりは絵を書くことのほうが手っ取り早い自己表現だった、
    というのが一番わかりやすい答えであろう。
    かつてからのこの国の定評として、
    「マンガは低俗文化」であった。
    「たかがガキの絵物語じゃないか」と蔑まれるジャンルのものだった。
    しかし、低俗とされ軽視され蔑まれる文化だからこそ、
    学歴のない青年たち、学校であまり成績の良くなかった少年たちが、
    これならば自分でもやれるだろうと思う芸術表現行為だったのである。
    すでに高尚な文化としての位置を確立した小説や詩作や劇作と比べ、
    軽視されてきた文化であるからこそ、
    学校ではその実力を評価されない空想好きの絵が好きな少年たちが、
    漫画(あるいは音楽)をめざしていったのであり、
    極端に言うならば、ごく近代になって、
    文学と漫画の間に総体的な位置関係の変動が生じたのである。
    ここに、現在の日本の「マンガ文化隆盛」の根がある、と思える。

    手塚治虫が急逝した時、当然ながら、
    手塚に国民栄誉賞を、という声が持ち上がった。
    手塚こそ、マンガを描くために生まれて来た人間であり、
    戦後の時代から今日の日本のマンガ文化の基を築いた人である。
    しかしながら、政府のお役人の答えは、「ノー」だった。
    「たかがマンガ」という通念がこの国に浸透しているいい例である。

    だが、軽視され、低俗だとされる文化のジャンルだからこそ、
    マンガの世界は制約がなく自由なのである。
    学歴や経歴を気にすることなく、
    若い人たちが自己表現を発揮できる場なのである。
    つまり、マンガ自体が
    長い間「社会的には軽んじられてきた文化」であったため、
    そこには制限の枠もなく、
    自由な発想、自由な表現の場があったのである。

    成績も悪く、教師からも(ときには親兄弟からも)軽んじられてきた
    空想好きな絵を描くことの好きな少年が、
    社会的に有能な人間になろうとは考えず、
    こんな自分でも何か自己表現ができるはずだ、
    と思った時に、そこにマンガというジャンルがあったのである。

    「こんな自分でもなんとか生きていきたい」
    とは島崎藤村の言葉だが、
    人間がそう思った時に、初めて見えてくる真実というものがある。
    こうした心情は、
    社会的には無用といわれ軽視される職業を選んだ人の中から
    出てくることが多い。
    かつては「たかが文士」と言われたように文学が
    そうした位置にあったのだが、近年では、
    マンガがその位置にあったのである。
    しかし、漫画が社会的に注目されるようになり、
    漫画家の地位も一般的にある程度認められ、
    漫画論というものが本格的に語り合われるようになった今日現在では、
    漫画という芸術分野もまた、文学のように、
    有用で名誉ある職業になっていくことは
    将来的にも容易に想像できるし、
    実際にそうなってきているのが現実である。

    ただし、それでも、―――――それでも、
    今もなおかつての「文学青年」タイプと呼ばれる若者たちが、
    多く「マンガ青年」として存在していることは事実であり、
    それは、マンガが、依然として、
    軽視されたり蔑まれたりしてきた近代の流れの中で、
    いまもなお制限枠のない自由で奔放な表現媒体であることを
    多くの若者たちが無意識に認めていることを示している。
    軽視されることの自由、低俗と認識されていることの自由、
    そこに、学歴やら肩書きやら形式儀礼などをまったく意に介さない
    多くの才能が集まってくるのである。

    手塚が逝った。石森も逝った。藤子不二夫Aもこの世を去った。
    長谷川町子も、寺田ヒロヲも、すでに幽明境を異にしている。
    今日のマンガ文化の基礎を築いていった才能が
    すでにこの世には存在しない。
    しかし、
    新しく誕生し登場してくる才能群に大きな期待が持てるのも
    この分野の特徴である。

    トキワ荘誕生から半世紀が経過した現在もなお、
    次の新たなる才能が、
    旧トキワ荘近辺や
    あるいは『女流漫画家版トキワ荘』といわれる大泉サロン近辺の
    いわゆる『聖地』『聖域』から、
    次々と生み出されていくのであろう。
     

    跋:文章によって自己表現をしたいという欲求

    今年も芥川賞が発表された。
    前回候補の島本理生さんもそうだったが、
    なんと若い女性のパワーはすごいものである。
    受賞者は『蹴りたい背中』の綿矢りささん(受賞当時19歳)と
    『蛇にピアス』の金原ひとみさん(20歳)だった。

    金原さんは1983年東京板橋の生まれ、現在は府中市に在住、
    文化学院高等課程を中退している。
    綿矢さんは1984年京都生まれ、現在は東京文京区在住、
    早稲田大学に在学中である。

    かたや高校中退、かたや女子大生と対照的だが、
    文章によって何かを表現したいという欲求は同じである。
    生き方や経歴が異なるからといって
    何人(なんぴと)たりとも、
    異なる相手を否定することはできないし、
    そのようなことをする必要もない。
    また、してはいけない。
    そんなことをすれば、自分がいかに品性下劣な人間かを
    みずから暴露しているだけのことである。
    これは人間が生きていく上で、ごく当たり前のことである。
    時たまこんな当たり前のことが理解できない
    (あるいは理解しようともしない)人に出会うこともあるが、
    そういう人には「自分自身の決めた常識の世界」しかないのであろう。
    ある意味、哀れな人(もしくは人々)である。

    インフォシークでも、
    エリカさんのようにあふれ出る自己表現を素晴らしい文章にする
    若い女の子がいるが、
    やはり、文章によって何かを表現したいという欲求は
    少なからず誰の胸にもあることだろう。
    また、だからこそ、
    『プレイヤーズ・エッセイ集』も実現したのだろう
    と思う。

    これからも、誰かが書いた『素晴らしい自己表現』に出会えれば、
    と願ってやまない。

    トキワ荘にてある時代、マンガによって『自己表現』していた人々も、
    芥川賞を受賞した才能溢れる若い女の子も、
    インフォシークにて『週刊』にエッセイを寄せてくれたプレイヤーたちも、
    そういった意味では、
    時代やジャンルやその専門的度合いは異なっても、
    結局は、同じラインの上に棲息する人々であろう。

    (2004年・3月14日改稿)

    注:
    本文は既にHP『あらまあー別館』にアップしたものに加筆したものです。

    --------------------------------------------------------------------------

    編集後記

    まずはこの場を借りまして、
    3月のインタビューゲストになっていただいた
    J☆BOYさん、かずねママ♪さんに、お礼を述べさせてもらいます。
    どうも、あらまあーの急な頼みを聞き入れてくだすって
    ありがとうございました!^^

    さてJ☆BOYさんからメッセインタビューの後にメールを頂戴したので
    一部ご紹介しておきましょう。

    『(前半部分略)・・・あらまーも思ってる事と思うんだけど、
    ハンゲームのように、
    いくら打ってても2位や3位じゃポイントが上がらないような
    ポイントのつけ方になるといいと思うんだけど、
    あらまー通信使って署名活動でもして
    インフォシークゲームに出来ないかな
    ・・・・まぁJgameの対応じゃ無理だとは思うけど、
    一応ご意見って所あるくらいだから
    もっと、レベルの高くなるようなJgameにしたいよね^^
    勝手な事言ってすいません 
     (o_ _)ノ彡☆バンバン ギャハハハ
    では、又^^』

    いえいえ、まったく同感ですJさん!^^
    それにしても、絶対年上だと思っていたJさんが
    あらまあーよりちょこっと年下とは・・・ややショックでした。
    (≧∇≦)ノブハハハ!!
    今後とも、よろしく!

    さてやっとのこと、2004年初の週刊を発刊することができました。
    ふううううううううう^^;
    今回はリアルで色々と忙しかったので、
    まさに「出来上がってよかったぁ!!」
    という気持ちが強い、思い出深い23号となりました。
    これからも、HPともども『週刊あらまあー』を、よろしく・・・・
    隅から隅までずずずいっと、お引き立てのほど、
    よろしくお頼み、申します。m(_ _)m ・・・・・・・・・


    --------------------------------------------------------------------------

    {週刊23号=麻雀における推理について(2)
    :2004年3月14日完成}
     

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