ひいいの麻雀研究  ひいいの麻雀研究

1−05 麻雀論
 麻雀の目的、麻雀における戦略、そして戦略と戦術の違いなど。

    麻雀の目的

     何を目的として、麻雀を打つか、については、人によってそれぞれであろうと思う。
       ・トップを取る目的。
       ・特定の対戦相手に勝つ目的。
       ・大きなプラスは取らなくともマイナスにならない目的。
       ・自分が和了する目的。
       ・麻雀を覚える目的。
       ・仲間と話しながら楽しく打つ目的。
    などなど、もっと上げれば、枚挙に暇がないことであろう。

     人それぞれの目的意識について、それがいいとか悪いとかいうことを言及するつもりはない。
     これ以降は、「勝つこと」を目的とする人にのみ、読んでもらいたい。

     麻雀で勝つことを目的とする場合においても、勝つことの定義が曖昧である。不特定多数の対戦で総合してプラスになること、特定回数の対戦で総合してプラスになること、などであろう。
     多くの麻雀ではオカ(トップ賞)がある。25000点持ちの30000点返し、という場合、4人が持っている点棒の合計は、25000点×4人=100000点、であるが、30000点返しとすることで、(30000点−25000点)×4人=20000点分がオカとなるのである。つまり、実態としての点棒は100000点であるが、計算上の合計点数は30000点×4人=120000点になるのである。この差分の20000点がトップ者だけが得ることができるオカなのである。
     オカ(トップ賞)がある麻雀において、トップになることはトータルプラス要因に極めて大きく影響する。4回の対戦で、2位・2位・3位・3位になるよりも、1位・1位・4位・4位になる方が、トータルでプラスになる。これはオカの仕組み、つまりトップだけが得をする特性があるから、である。

     よって、麻雀に勝つ、ということは、いかに多くのトップを取るかに大きく依存していると言える。
     

    麻雀における戦略

     麻雀における戦略について述べる。

     以下にA図とB図の2つの配牌を仮定する。

    A図    ドラ:

    B図    ドラ:

     A図の配牌とB図の配牌は、どちらが、いい配牌であるか?
     A図は六向聴で、辺搭1つと嵌搭1つしかない、対子はない。
     B図は二向聴で、搭子は両搭が3つ、できあいで1面子ある。ドラもある。タンピンドラ1がすぐに浮かび、三色同順も構想できる。
     「どちらがいい配牌かって、そんなのはB図の方がいいに決まっている」・・・・と思う人は、戦略がない。
     意地悪な例で恐縮であるが、もし、トップと30000点差のビリであったら、A図の方がいい配牌なのである。倍満以上が欲しい状況で、タンピン三色ドラ1などは役不足である。
     B図から倍満以上を作ろうと思ったら、メンチン構想しか見えない。索子でメンチン+ドラ1であと1役となる。平和か断幺九かドラもう1枚か立直か一盃口か。八向聴なのである。
     それに対して、A図から倍満以上を作ろうと思ったら、国士無双が近い。六向聴である。よって、A図の方がいい配牌、となる。

     戦略とは場況認識から生まれる。場況認識の場況とは、以下のことである。
       ・4人の持ち点
       ・何場の何局か
       ・本場数
       ・親か子か
       ・並び順
       ・供託立直棒数

     自分が今、どのような方法で何点欲しい状況なのか、をしっかり認識すること、これが戦略の第一歩である。
     よく「配牌がタンピン形だったから、タンピンに行くしかなかった」などと言っている無戦略の雀士がいるが、お話にならない。
     配牌を見る前に、「倍満が欲しい」「3900が欲しい」と戦略を立てた上で、配牌を見れば、場況によってはB図の配牌は愚形に見える筈なのである。
     戦略は、場況の変化によって変えなければならない。点差が変わらなくとも、親の連荘で本場数が増えたり、親流れになったり、供託立直棒が溜まったり、という変化がある。局内においても、誰かが立直をかけたとしたら、場況が変わるので、戦略も変化しうるのである。

     戦略は後に述べる戦術と異なり、その局の自分の目標である。「○○点欲しい」という和了の欲求ばかりでなく、「絶対に放銃しない」「絶対に形聴に取る」「絶対に食わせない」というものも戦略である。

     点差がない局で、何点欲しいか、ということも戦略である。
     東1局0本場、荘が今始まろうとしている。配牌前、西家のあなたは、何点欲しいか?
     「配牌を見なければ何とも言えない」という答えは戦略のなさの露呈である。配牌前に、点差がない局において何点和了するべきだという点数を頭に描いておくことが戦略なのである。
     人によって、この戦略に違いがあると思う。1000点でも和がれればいいという人もいれば、満貫は欲しい、と思う人もいる。
     私は、以前かなり長い間、点差がない局の散家(子)は5200点に設定していたが、3900点、2600点と徐々に下がって来ており、最近は2000点になっている。役牌+ドラ1とか、食い断+ドラ1、などというケースが多い。つまり、1000点や1300点では役足らず、ということである。
     ここでの設定点数というのは、戦略上のものであり、配牌を見る前に既に心の中で決めているものである。しかし、例えば5200点と設定したからと言って、必ず5200点以上で和がらなければならないものではない。戦略としての設定点数は大切であるが、配牌や自摸牌を見て、補正しなければならない。配牌で満貫が見えていてその和了可能性が高いのにそれを潰す必要はない。また、5200点と決めていたとしても、他家の動きや手の進行具合などによっては、2000点で和了する方が適切である場合もある。
     私の戦略を書くと、点差がない局の散家(子)は2000点、荘家(親)なら1500点(最低点)である。
     東1局0本場、西家で、發を対子で持っていたとして1鳴きするか否かは、他にもう1役付けられるか否かで決める。ドラか三色同順か別の役牌などと複合しそうにない時は、1鳴きは見送る。發を自摸って暗刻になれば、門前で立直の可能性(立直+發で2600点)も出るからである。そして、1鳴きを見送った後、2枚めの發が出たら鳴くか否かは、 またその時点での自分の手の進行度合いと他家の動向(捨て牌や副露や立直)によって決める。ここで、發のみで安蹴りするか、それともじっくり行くかを見極める。發を鳴かなくても、發2枚を切り落とすことを前提に、安牌として2枚ないし1枚保持した上で、断幺九や平和を目指すケースは多い。稀なケースではあるが、發を雀頭として使うこともできる。
     もし、他家の立直が入ったら、發のみの1000点でも和了することを選択肢に入れる。他家の立直は自家の和了のチャンスである。立直者は守れないし、和がれば發のみ1000点でも、供託立直棒1000点を得ることができるので、合計2000点の収入になるからである。放銃リスクを回避しながら勝負できるのであれば勝負に行く。

     点差がない局の親の戦略は、一般には連荘である。格好悪くバタバタしても、つまり、副露や愚形立直をしても、連荘を狙う。

     局が進行し、点差が開くことによって、また、新たな戦略が必要となる。点差がない局の戦略においては、人によってある程度の差があるであろうが、オーラスでの戦略は、人によって差が出ないものである。
     オーラス0本場、自分は2位で北家、トップ(ラス親)との差は3500点。あなたは何点の和了を目指すか? この問いに多くの人の解は一致を見る。3900点が設定点となるのである。もちろん、この3900点というのは、誰から栄和してもいい点数である。自摸和ならば、2600点でいいし、直撃ならば2000点でいい。

     確和了(かくほうら)という言葉がある。
     オーラスで、自分の2位〜4位を確定させる和了をすること、である。2位確定の和了を2確(にかく)、3位確定の和了を3確(さんかく)、4位(ビリ)確定の和了をラス確、と言う。
     オーラスでなくとも、他家を飛ばして確和了、ということもありうる。
     偶然性に頼った麻雀は確和了を招く。裏ドラ期待など、である。勝ちたいのならば、偶然性に頼った打ち方は厳に慎むべきである。
     確和了をする、ということは、自らの負けを自分で確定してしまうということであり、極めて愚かな行為である。

     一般に、戦略を描く上で、最初から直撃狙いを構想すべきではない。まずは、誰から和がっても届く点数で考える。その構想がどうしても無理ならば、自摸で届く点数で考える。それもまた無理な場合には最終手段として直撃狙いを考える、という順序になる。
     0点〜8000点差であれば現実的に考えることもできるが、大差がついて負けている時には、また、それなりの戦略を描く必要がある。
     トップ者が子の場合、満貫自摸で届くのは10000点差、トップ者が親の場合は12000点差までである。満貫はある程度の役を組み合わせれば作ることができる。
     しかし、これが跳満になるとガクンと和了可能性は落ち、倍満ともなれば、さらに、である。そして、3倍満ということになると、これは役満よりも和了可能性は低いのである。
     作り易さから言えば、満貫以上の場合は、満貫→跳満→倍満→役満→三倍満 という順序である。点数と一致していないところを、戦略上キチンと考慮しなければならない。
     もし、トップ差24000点以上あったならば、「三倍満を作ろう」などと考えてはいけないのである。倍満を作って直撃(これだけ点差がある場合自分が3位か4位なので直撃で2位の点数を上回るかの考慮が必要)か、役満なのである。
     トップ差12000点以上あったならば、倍満か、跳満自摸か、6400直撃になるのであるが、このような場合は、ほぼ役固定で行った方がよい。待ちの広い7700か8000ができるのなら直撃の可能性もある。それは考慮に入れるべきであるが、それが無理ならば、自摸センで跳満を決め打ちした方がよい。そして、跳満の自摸センで最も可能性が高いのは、立直+自摸+七対子+ドラドラである。次が染め手(メンチンか、食いチン+1飜か、メンホン系)である。よって、色を1つに寄せつつ、対子を大事にする打ち方がよい。跳満以上という時に、ドラドラがなければ、三色同順や一気通貫を考えてはいけない。三色同順や一気通貫は、満貫止まりの役であると認識すべきである。
     役満縛りで打つ場合には、役満の中で和了可能性の高い3大役満にターゲットを絞る。3大役満の中でも、大三元は三元牌がなければ話にならないが、国士無双と四暗刻は配牌がどうであれ、無理矢理に作ることができる役満である。

     オーラスでは、点差がはっきりしているので、戦略をきっちりと立てることができ、このオーラスの手作りや和了によってその人の戦略の有無は明白に見えてしまう。

     オーラスで「裏が1枚乗れば逆転」ということで立直をかける人がいるが、愚かである。
     最も裏ドラが乗りやすい牌姿でも裏ドラ率は3割ちょっと、暗刻があったり、一盃口のように順子が重なったりすれば確実に2割台である。裏1期待をしても、10回のうち7回以上も、確和了することになるのである。これは非常に損である。

     オーラスの戦略は明確なのであるが、では、ある程度点差のついた、東2局や東3局などでの戦略はどのようなものになるのであろうか?

    (1)大差で負けている時
     東1局0本場、親がいんぱちを自摸和がった、とする。この時、子3人と親との点差は、24000点。こんな時に、子がのみ手を和がるのは愚かである。「ついている親を蹴る」などというオカルト発言をする人がいるが、1000点和がって、逆転可能性はどれくらい高まると 見込むのであろうか。
     また、このような時に、四風牌連打、九種九牌倒などで流局を選択する人をたまに見かけるが、極めて損である。大差で負けている時には、なるべく局を進行させないことを望むべきである。
     半荘戦ならばまだ許せるが、東風戦では大差がついている場況での安和がりは厳に慎むべきである。24000点差あれば、最低でも満貫を目指し、満貫なら直撃を狙うべきであろう。他家から出ても見逃しである。跳満あれば、トップ者以外からの和了でも点差は12000点弱に縮まるのであるが、放銃者の持ち点が7000点弱に減ってしまう、ということを考慮しなければならない。 つまりドボン(箱割れ)で終荘という事態を招かないような配慮が必要となる。
     10000点差程度ならば、一度にまくろうと考えてもよい。しかしそれ以上ならば、2回でまくることを考えるべきである。
     大差で負けている時には、大物手を狙い、役固定・面子固定・有効牌固定、となりやすいものである。負けているから、といって安易に危険牌を切り回すのはよくない。自分は和了可能性の低いところを狙っているので、攻守バランスを無理に崩してはいけない。どんなに点差が開いて負けていようとも、守りの配慮をなくすことは考えてはいけない。放銃して余計に点差が開いては勝てる可能性が さらに遠のくし、ましてやドボンという事態になれば、それで負けの確定である。

    (2)僅差で負けている時
     東2局くらいでトップ差4000点程度の負けであれば、無理して大物手を狙う必要はないが、かと言って、のみ手でいいかというとやや物足りない。一度にまくることまでを考慮する必要はないが、差をつけられないように、できれば差の半分以上の点棒を稼ぐことを考える。最低2飜の役を目指す。
     また、最も積極的に副露してよいのは、このような状態の時である。大差で負けている時の副露は役がばれるし鳴くと安くなるのでよくない。僅差で勝っている時の副露は防御が弱まるので避けた方がよい、大差で勝っている時はできるだけ副露すべきでない。

    (3)僅差で勝っている時
     東2局くらいで2位に4000点程度の差をつけてトップを走っていれば、安手でも早く流すことを考える。局を早く進行させることが最大のミッションである。勝っていれば、優先的に、四風牌連打、九種九牌倒などで流局を選択して局を進める。
     安くても早く、をモットーに手を進めるべきである。

    (4)大差で勝っている時
     東1局0本場、親である自分がいんぱちを自摸和がった、とする。2位との差24000点のダントツ状態になる。ダントツなのに、さらに自分の点棒を増やそうと考える人がいるが、愚かな行為である。多少自分の点棒を減らしてでも早く局を進める、ということを考えるべきである。
     このような場況で、立直や副露はよくない。避けるべきである。連荘の必然は薄い。原則は専守防衛に近く、堅く打つことである。他家の手によっては、差し込んででも、早く局を回すことを考えるべきである。門前で手を進め、聴牌してもダマ。役がなくても、である。自摸れば和がればよい。役があるなら、当然和がればよい。しかし、危険を察知したら、即座に守りに転じる。
     子になったら、できるだけ鳴かずにかつ立直せずに、聴牌できれば、自分が和了することによって局を進め、手が遅ければ早いうちから降り打ちに転じる。大差で勝っているのだから、ノー聴罰符などを恐れる必要は全くない。無理は禁物である。


    攻撃の戦略

    ●棒聴と牌効率と役作り

     棒聴という言葉がある。これは、役にはこだわらずになるべく効率的に早く聴牌をとろうとする考え方である。速さを優先させるために安手になる傾向がある。「牌効率」という言葉を棒聴と同義に書いてある書籍もあるが、ここでは、牌効率は、役による点数も考慮したもの、と定義している。
     棒聴に対して、役作りという言葉がある。これは、配牌時点から想像力を働かせ役を固定して考え、遅くなっても高い和了点数を狙う打ち方である。
     この、棒聴と役作りは対極にあると言える。

    棒聴早い安い自摸牌重視
    役作り遅い高い配牌重視

     麻雀プロが書いた書籍において、「麻雀とは役作りをするもの」「想像力を働かせよ」という記述をよく目にする。
     このため、棒聴は悪いことのように言われる傾向がある。早くても安ければすぐに逆転されてしまう、決定力に欠ける、麻雀の醍醐味がない、というような批判をよく見る。なるほど、棒聴には欠陥が多い。
     この棒聴と役作りの対極を比較して、「だから麻雀は役作りすべきものである」と思い込んでしまっている人は結構多いと感じる。
     ネット麻雀で和了して「やすごめ」という人は多い。これは、「安い手でごめんなさい」という謝罪の意味である。自分がトップを走っているとか、安い手でトップに立てるとか、誰かが高い手を目指しているとか、ドラをポンされたから、などという理由があって安手で和がるならば、謝る必要など全くない。堂々と安手で和がればいい。しかし、もし、自分が負けていて安手で和がる理由もないのに和がるのだとしたら、見逃すべきなのに見逃さずに和がってしまうということは謝る理由にはならない。自分の首を絞めているだけである。つまり安く和がったことを謝罪することは不条理なのである。

     話を元に戻して、棒聴と役作りの対極の比較によって、役作りが勝るものではない。棒聴という概念が必要な場合も多い。どうしても連荘したい親、ここで和がった人が勝つというオーラスなど、である。このような場合に、高い点数を狙う必要は全くない。無駄なのである。安くてもとにかく早く和がりたい、という場面において、点数はどうでもいいのである。

     私は、棒聴とは別の概念を考えた。それが私が定義する牌効率である。
     「防御は無視し、役は考慮した上で、最も早く高い手を和了すること」を「牌効率」と定義する。つまり私の定義する牌効率は、和了確率と和了期待点をしっかり考慮した上でのものなのである。棒聴では役を考慮しないがために安くなるのであるが、牌効率は早さと高さの両面を高めることができるのである。
     牌効率は、棒聴に比べれば早さの点で劣るし、役作りに比べれば高さの点で劣ることになる。しかし、裏返せば、棒聴に比べて高さの点で勝るし、役作りに比べて早さの点で勝るのである。

     ここに、3つの戦略が揃ったことになる。棒聴と牌効率と役作りである。
     この3つのどれが優れていてどれが劣っている、ということではなく、場況に応じた使い分けをすることが重要なのである。

    (1)棒聴
     ダントツで勝っている時。親で僅差で勝っている時。オーラスで「和がれば勝ち」の状態の時。

    (2)牌効率
     点差がない局。親で僅差で負けている時。前半、子で負けている時。

    (3)役作り
     子で大差で負けている時。親で大差で負けている時。
     

     
    (1)棒聴大差で勝っている時
    僅差で勝っている時
    大差で勝っている時
    (2)牌効率僅差で負けている時
    大差で負けている時
    僅差で勝っている時
    僅差で負けている時
    (3)役作り大差で負けている時大差で負けている時
     これらは、いずれも防御面のことを考慮して書いていない。攻撃面における戦略のみを記述している。
     オーラスで「和がれば勝ち」の状態の時に、高さを狙うのは損である。オーラスで跳満が必要な場面で早さを追って点数が足りなければ仕方がない。
     要するに場況に応じた明確なる戦略の切替が肝要なのである。

    防御の戦略

    ●突っ張りと回しとベタオリ

     突っ張りとは、放銃を恐れず自分の和了を優先させて考えることにより、危険牌をも切り捌くことである。特に全く防御面を無視することを全ツッパと言う。
     回しとは、暴牌を抑えつつも、危険度の薄い牌を切って、向聴数を上下させながらも、反撃の機会を伺う打ち方である。
     ベタオリとは、とにかく放銃しないこと、場合によっては副露もさせないことを目標に、安牌だけを切っていく打ち方のことである。

     突っ張りが防御なのか? という疑問は判るが、ベタオリを防御力100、回しを防御力50、とするならば、防御力0が突っ張りの状態なのである。違和感はあると思うが、防御の戦略の1つ、「守らないこと」としてここに掲げる。

    (1)突っ張り
     特に大差で負けてる時には、突っ張りになり易い。オーラス逆転手の倍満を聴牌したら、なかなか他家への放銃を回避しようと考えられずに、暴牌切り回し状態になってしまうものである。
     しかし、いかなる場況においても、突っ張りはよくない。自分の逆転手が和がれなければ負けて終荘であっても、それは同時に放銃しても、負けて終荘なのである。暴牌の切り回し、ましてや包牌打牌(ぱおぱいたあぱい:役満を確定させる牌を鳴かせること)などは、雀士としての恥であると肝に銘ずるべきである。
     因みに、認識していない人は多いが、立直をかける、ということは、防御力0状態であり、突っ張りと同じである。立直にはそれなりの放銃に対する覚悟が必要なのである。

    (2)回し
     大差で勝っている状態でなければ、一般には回しの防御戦略を採る。他家の立直がかかるたびにベタオリするのは「おりダコ」と呼ばれるタコの一種である。
     そうそう、他家の聴牌が見えたからと言って、降りてばかりはいられない。また、危険度の高い牌を切る訳にもいかない。こんな時は、危険度の高い牌で搭子を構成できるように考え、危険度の低い牌を切っていく。他家立直の場合、最初の数巡はきついが、数巡を凌げば、立直者自身が安牌を増やすし、他家の勝負によって、また見えてくる壁によって、安全度の高い牌は増えてくるものである。
     一旦向聴数を上げて一時撤退しても、チャンスを伺い、再起し、巻き返しを狙えるものである。タンピン手の聴牌から一発消しの鳴きを入れ、安牌を切って一向聴。その後、安牌を切りつつも、聴牌に巻き返して、断幺九のみで和了(2000点の収入)する、ということができると、勝てるチャンスも増すものである。
     因みに、回しが最適な状態とは門前非立直状態である。副露していればその分、回しの自由度が減るし、立直していれば当然のことながら捨て牌選択の余地はない。
     麻雀は攻めと守りの両輪であり、最も多い守りの手段はこの回しなので、序盤からの副露はなるべくするべきではない。

    (3)ベタオリ
     大差で勝っている時は、ベタオリの選択がよい。また、特に振りたくない相手(トップ者や親など)の立直や副露状態によっては、ベタオリを選択した方がよい場合が多い。さらに、複数者の立直が入った場合や大物手の聴牌が読めた場合にも、無理に勝負しない方がよい。


    その他の戦略

    ●親の戦略

     一般に親は連荘戦略を採るべきである。「親は点数が1.5倍だから大物手を狙って一気に勝負をつける」というギャンブル麻雀思想の人もいるのであるが、賢い戦略とは言えない。安手でも和がればまた親、チャンスは続くのである。

    ●流局戦略

     流局には、以下の種類がある。
     九種九牌倒・四風牌連打・四家立直・四槓算了・三家和・チョンボ。いずれもなかなか狙ってできるものではないが、自己意志で流局実現できる場合も、また、その逆に流局拒否できる場合もある。
     そのような場面に遭遇した時、流局すべきかどうかは、場況によって判断する。
     粗い一般論としては、「勝っていれば流局する、負けていれば流局しない」である。
     九種九牌倒や四風牌連打においては、自分の手がいいか悪いかを一義の判断基準としている人を見かけるが、自分の手よりも、点差状況を重要視すべきである。
     九種九牌倒において、手がよい、とは、国士無双を狙いやすいか、七対子または混老頭+対々和を狙いやすいか、全帯幺を狙いやすいか、または、中張牌の面子・両搭があるか、などである。
     四風牌連打においては、並び順を重要視しなければならない。自分が西家だとする。第1巡、東家と南家が風牌の北を切った。自分は北を1枚持っている。もし自分がトップならば、北を切る。しかし、もし、下家の北家がトップならば、北を切らない。
     また、当たり前の話であるが、点差状況がどうであれ、他家が四槓子を聴牌している時、自分の手持ちの暗刻と同じ牌が出たら、迷わず大明槓して、四槓算了で流すであろう。 これも流局戦略の1つである。

    ●絞り

     絞り(しぼり)とは、他家に副露させないように特定の牌を手中に残すことである。多くの絞りの対象となる牌があるが、一般によく言われるのは、役牌絞りと色絞りである。
     役牌絞りとは、鳴けば1飜になる役牌を他家にポンさせないように抑えて打つことである。色絞りとは特に下家が染め手の場合に、その染めている色の牌を鳴かせないように抑えて打つことである。

    ●形聴

     形聴(けいてん)とは、形式聴牌の略であり、一般に、役がないのに副露して形式的に聴牌に採ることを言う。形聴は、ノー聴罰符を払いたくない、もらいたい、という欲求から行う。
     役がない状態で副露した場合だけのことを指す場合が多いのであるが、オーラス逆転のために満貫が必要なのに、どうしても有効牌を引けずに満貫が作れない、という場合、満貫ができなくて、副露もしなくて聴牌に採ることがある。これは、役はあるし副露もしていないのであるが、意味合いとしては形聴なのである。もし和了牌が出ても自摸っても和がらない(和了放棄)のであるが、ここでノー聴罰符を払ってしまうと次局で満貫では届かなくなってしまう、というようなケースにおいては、今回の和了を諦めてでも次 局につなげるために聴牌に採る、ということが戦略上重要になってくる。

    ●狙い撃ち

     特定の人からのみ和了することを考えた手作りのことである。オーラスでトップの子と15500点差ある時に、自分が子ならば、倍満を作らなければオールマイティに勝ちを確定できない。跳満自摸でも届かない。このような点差では、満貫直撃が現実的な選択肢となる。このようにトップ者だけから栄和のみを もって和了する戦略のことを狙い撃ちと言う。他家から和了牌が出たら見逃しであり、自分が和了牌を自摸ってしまったら一旦振聴にして待ちを変える。
     狙い撃ちをするためには、立直をかけるとぐっと和了確率は低くなる。振聴になってしまうからである。
     狙い撃ちは、下家が最も容易で、次が対面、最も難しいのが上家になる。山越ししないと振聴になってしまうから、である。

    ●差込(さしこみ)

     差込とは、意図的に放銃すること、である。自分がトップである時、別の他家が大物手(例えば役満)聴牌などの場況において、主に安手にわざと振り込んでしまうことである。
     ダントツの場合には、自分の点棒をさらに増やすことよりも、早く局を回すことを考える方が賢い戦略となる。
     点差がかなりついているのに、無戦略な雀士はドラもなく、さしたる役もないのに、副露したり立直したりするものである。ここに差し込む。
     普段、「放銃しないように」と注意して打っていても放銃してしまうものであるが、実際、わざと放銃しようと危険牌を切り捌いてもなかなか当たらなかったりする。差込しようと考えて打牌選択をすると、和了牌を捨てることが、安牌を捨てることより、遥かに難しいことであるかがよく判る。

    ●ブラフ

     ブラフとは、ある特定の役(一般に高い役)を指向しているように見せて、その実は、降りている、というものである。
     配牌で6向聴、嵌張ばかりながらも萬子が6枚あったとする。和了を狙ってではなく、序盤のできるだけ早い巡から萬子をチーして、索子と筒子の真ん中を切り捌き、あたかも萬子の清一色を狙っているように見せる。特に上家に対しては大きな効果となり、上家は萬子を色絞りするようになる。また上家以外も、字牌を絞ったり、ポンされないように色絞りをしたりするので、場全体の手の進行が遅くなる。
     自分は、というと、安牌をたくさん抱えて、和がる気なし、という気楽さである。

    ●ベタオリに見せないベタオリ

     他家の立直に対してすぐにベタオリしてしまうのはよくないことであることは書いた。もちろん、自分がダントツの場合や、殆ど自分に和了可能性がない場合、いわゆる勝負手でない場合にはベタオリ戦略でいいのであるが、だからと言って、他家の誰にでも判るベタオリはよくない。
     ベタオリを決め込んだ時点において、留意すべき点は、「ベタオリをする。しかしだからと言って、立直者以外にベタオリしたと思われてはいけない」ということである。
     守りのことを全く知らない初心者は置いておいて、多くの雀士は回すものである。回している状態と、ベタオリの状態との差を明確にしてしまっては損である。
     明らかなる面子崩し、暗刻落としなどを見せると、立直者以外の2人が「あ、ベタオリしているな。無警戒でいい」と思ってしまうのである。これは、立直者以外の2人に対して、敵が1人減ったと思わせる結果となる。そう思わせないように、実際はベタオリながらも、あからさまなるベタオリではなく、ベタオリせずに回しているかのように見せるベタオリが必要なのである。

    ●マーク

     点差がない局で、自分が聴牌した時に、「誰から和がってもいい」と思っている人は戦略がない。
     点差がない局で、誰の立直に対しても、同じようにケアしている人は戦略がない。
     ここで言いたいことは、人別のマークである。これは点差に起因するものではなく、つまり、現時点で誰がトップなのかと言うことではなく、対戦相手の雀力の見極めである。
     手強い麻雀巧者が勝っているよりも、タコが勝っている方がずっと状況としては自分にとっていい、のである。


    ルールによる戦略の違い

     麻雀とは、画一的なルールではなく、多様なルールがある。
     ありあり/なしなし、割れ目あり/なし、ウマ(順位点)、焼き鳥ペナルティ有無、ドボンペナルティ有無などなど、「麻雀のルール」の章に記載した数だけの多くのルールがある。
     これらのルールによって、麻雀の戦略は異なる。
     ルールの組合せの数だけの、麻雀の戦略がある、と言ってもよい。

     確和了(かくほうら)という言葉がある。確和がりとも言う。
     オーラスで、トップを狙わずに、自ら2位〜4位を確定させてしまう和了のことを言う。4位を確定させる和了をラス確(らすかく)と言い、特によくないことのように言われるが、ルールと場況によっては、ラス確が最良の選択であることもある。例えば、焼き鳥とドボンのペナルティがあり、ウマなしのルールにおいて、オーラス焼き鳥でドボン間近、このような状況では、焼き鳥とドボンを回避するために、順位変動しないラス確和了を選択することもあるのである。
     また、2位を確定させる和了は、2確と言うが、2位から2位になる和了(順位変動なし)と、4位から2位になる和了(順位変動あり)では、価値が違うのである。

     実戦麻雀においては、その日の合計プラマイを最大化するように打つ戦略を採るであろう。場合によっては、「前回大きく負けたから今回は大きく勝ちたい」とか「プラマイとんとんになればよい」とか「今月のトータルでプラスにしたい」とか、色々な考えもあろう。
     ネット麻雀のJgameにおいては、ウマがなくオカしかない、また、ランカーはトップ率が表示される(ポイントは雀力評価基準にならず、雀力評価基準になる数値はトップ率しかない)ことから、トップ狙いの麻雀になるであろう。
     ネット麻雀の東風荘においては、雀力評価基準としてR(レート)があり、Rを最大化するように打つ戦略を採る。東風荘での対戦経験が少ないので、誤っているかもしれないが、2位でもRは増え、4位だと3位よりも大きくRが減る、ということから、順位にこだわった和了を選択するため、4位にならないようベタオリが増え、また、オーラスでの2確が多くなるものと思われる。

     ネット麻雀のJgameにおいては、トップ狙いが中心となるため、確和了は非難の対象となる。
     トップと60000点差あれば、役満の直撃を目指す戦略となり、必然的に役満縛りとなるのである。確和了とは、オーラスにおいてのものとは限らない。東1局でも親が連荘し、子の1人の点数が少なくなっている時に、その子から和了して飛ばして(ドボンにして)しまうこともまた、確和了である。

    戦略と戦術の違い

     戦略とは、目標でありガイドラインである。戦術とは、その戦略を具現化する手法・手段である。具体的には何を切るか、立直すべきか、副露すべきか、和了すべきか、などの判断になる。
     門前で聴牌し、立直可能状態になった、立直すべきか? という時に、戦略に照らし合わせて、立直をかけるか否かを決める。つまり、実際に立直をかけるかかけない の判断基準が戦術なのであり、戦略はその戦術の発動以前に定められているものなのである。

     「点差がない局で南家。トップ差0点。あなたは何点欲しいと思うか?」が戦略である。そして、「あなたはどのような状況では立直をかけ、どのような状況ではダマにするか?」という問いの答えが戦術である。

     戦略については、先に述べた。戦術については、「第2部 手作りの理論」「第3部 待ち読みの理論」の中で詳述していく。

    対戦相手による差異要因

     いついかなる相手と打っても同じ戦略、というのではまずい。対戦相手によって、戦略は変えるべきである。また、同時に戦術においても、対戦相手によって、変えるべき点は多い。

    ・雀力
     麻雀の中級以上の打ち手で、「タコには勝てない」と言う人は多い。非常識的行動により読みが通じない、こちらの立直に対して、捨て牌に施した迷彩を見てくれない、というようなことである。
     しかし、タコと対戦しない雀士はいないのである。打ってみなければ対戦相手の雀力は判らないものである。しかし、数荘も打てばおおよそ相手の雀力は判るものである。
     対戦相手が麻雀巧者なのか、下手なのか、に応じて、戦略を変えなければならない。戦略を変えることにより、対戦相手に応じた有効な施策を打つのである。

    ・打ち方の特性
     ある1人の雀士の特性を、「混一色が多い」「平和が多い」「先切りが多い」「そば聴が多い」「立直に対しては滅法ガードが堅い」などと表現することができる。対戦相手をよく知っているのであれば、その相手の打ち方の特性に応じた戦略を立てることができる。

    ・相性
     麻雀の強さを表す指標には色々なものがある。それらの指標から、また、感覚的なものを含めて、「AさんはBさんに強い」「BさんはCさんに強い」「CさんはAさんに強い」というような連鎖になることがある。
     これは、強い人が弱い人の特性・癖などを多く掴んでいるか、もしくは戦略・戦術において、勝ちやすい組合せになっていることが原因であろうと考えられる。これを相性と呼ぶこととする。
     相性がいい相手に対しては、何ら変える必要はないが、相性が悪い相手に関しては、戦略の変化対処が必要である。

    昭和麻雀と平成麻雀

     麻雀の打ち方、あるいは戦略と言っていいと思うが、主に世代によって、2つに大別できる。
     私はこれを、昭和麻雀と平成麻雀と呼ぶ。

     昭和麻雀とは、手作り重視、守備重視、出和がり主体の麻雀である。配牌から想像力を駆使して高い手を狙い、副露はあまりしない門前主義で、立直は極力せず、筋引っかけや壁引っかけ、先切りや逆切りなどの捨て牌迷彩を施し、自摸和がることよりも、 敵の目を欺き、敵を討ち取ることを主体として打つ麻雀である。

     平成麻雀とは、スピード重視、攻撃重視、立直・自摸主体の麻雀である。門前にこだわらず早く和がれるならば早くから鳴き、門前なら棒聴で即立直、高い役を深追いしないで、安くとも早く和がることを目指す。立直においては、一発や裏ドラや自摸を期待する。守備をあまり重視せずに攻撃は最大の防御とし、他家に和了牌を止められても自摸和がりする、という麻雀である。

    昭和麻雀 平成麻雀
    ・手作り・棒聴
    ・高さ・早さ
    ・守備・攻撃
    ・捨て牌迷彩・効率
    ・栄和・自摸和
    ・門前・副露
    ・黙聴・立直
    40歳代以上の年代に多い。20歳代以下の年代に多い。
     昭和麻雀と平成麻雀、どちらの方がいいとか悪いということは言えないが、どちらにもメリットとデメリットがある。
     この2つを見比べて、自分はどっち派であるという偏りを認識できるのであれば、逆側のメリットを勘案してみて、ルールに照らし合わせて最適な方法を採るべきである。

    麻雀精神論

     麻雀精神論と麻雀流れ論は、分けて論ずることとする。
     この2つの議論を一緒にしてしまうと、「流れに乗れなかったため、精神面で負けた」「精神的な流れが悪い方に向かった」と言う言い回しになる。
     これらの言葉の言わんとしていることは、判らないでもないが、流れ・運・ツキなどに因って決まってくるものと、精神論は別としたい。
     流れには運・ツキに関するものと、精神的なものの2種類がある、という論理も理解できるが、ここでは、流れとは、運・ツキに関するものだけと定義して話を進める。
     麻雀流れ論は、「1−06 流れ論」にて論じることとする。

     麻雀精神論とは、麻雀に勝つために必要な精神力の理論である。
     武道において、心・技・体と言うように、心の面での強さは、勝敗に大きな影響をもたらす。単に強気・弱気ということではなく、精神的な脆弱さは、必ず勝敗に影を落とす。
     精神的な鍛錬を積まなければ、麻雀は強くなれない。

     すぐカッとなる、動揺が大きい、感情が顔に出る、いつまでもくよくよする、注意力散漫というタイプの人は、一般に麻雀に弱い。
     常に冷静さを保つこと、安定した精神状態でいること、集中力があること、これが麻雀精神論の中核である。
     ではこれらの精神力は、どのようにすれば高めることができるのか。

    (1)危機の経験
     麻雀における経験ばかりではない。人生における自分自身の様々なる危機、これを乗り越えることによって経験値が上がる。生命の危機、つまり、戦争・事故・病気で死にそうになることとか、餓死しそうになることなどが極端な例である。これほど極端ではなくとも、受験失敗、就職失敗、左遷、リストラなど多くのリスクを味わった人ほど、その人間の危機に対する経験度合いは上がっており、その経験が麻雀に出る。
     一般に年齢が若い人は精神力が弱い。これは人生における経験が浅いからである。
     一般企業においては、より上位の管理職についた人の方が、経験が豊富であり、様々なリスクに対応する能力を身につけている。

    (2)状況を冷静・客観的に把握する
     焦ったり、うろたえたりすると、状況把握を間違える。状況判断とは、状況把握の後に行われるものであり、まず状況把握が正しくなければ、絶対に正しい状況判断はできない。
     麻雀において、トップ差点数を間違える、対戦相手の座り位置を間違える、などというものは、状況判断以前の問題である。例えどのようなことが起こっても、動揺せずに冷静に、状況を的確に捉えることである。また、人間はミスをするもの。事実誤認は付き物なので、何度も確認をすることが大切である。

    (3)判断・対処
     状況を正しく把握できた後は、正しい判断・対処を行うことである。元から持っている技量が大きいのであるが、精神面での影響も大きい。感情的になることはよくない。個人が持っている技量がその場で上下することなどないのである。自分が持っている技量の中で、最大限の自分にとっての正しい判断をするのがよい。

    (4)集中
     ながら族、と言う言葉はもうあまり使われなくなったが、2つ、3つのことを同時に行うことを言う。ラジオを聴きながら食べながら勉強する、と言うようなことである。これは集中力向上を著しく阻害する。何かをする時には常に1つのことに集中することが大切である。テレビを見ながら麻雀を打つ(ネット麻雀であるが)と言う人を見かけるが、とても信じられない。ラジオや音楽を聴きながらと言うことも、信じられない。話(チャット)をしながら、と言うことも同様である。
     勝つことに執着するならば、可能な限り麻雀に集中すべきである。考えることは山ほどたくさんあるのである。

    (5)反省
     麻雀と言うゲームは4人の人間で行うものであるが、4人が4人とも唯我独尊になりやすいゲームである。「あの時は六筒を切るより三筒を切るのがいい打牌選択だった」「あの放銃は仕方がないものだった」と勝手に自分に言い聞かせ、自分で納得してしまっている場合が多い。
     勉強に予習と復習があるように、終わった後、自分のプレイを再検討してみる努力が必要である。「あの場況であの判断は正しかったのだ」という自分の論理を客観的に第三者に説明できるであろうか、と言うことを自分の中で検証してみることが向上につながる。

    麻雀はギャンブルか

     ギャンブルとは、投資と回収の理論によって成り立つ。1の投資が0になることもあれば、10になることもある。これが賭け事(ギャンブル)の基本である。
     宝くじ・ナンバーズ・ロトなどが運中心ギャンブルの典型例で、TOTO・競馬・競艇・競輪・パチンコ・スロット・ルーレットなどはギャンブルの代表例として言われる。
     では、カード(トランプ)はどうであろうか。七並べやババ抜きからギャンブルを想起する人は少ないであろうが、欧米ではポーカーやブリッジ(コントラクトブリッジ)はギャンブルとして捉えられている。そして、これらのカードゲームと同様に麻雀もギャンブルとして捉えられている。

     金を賭けずにやって楽しいであろうか、という観点から考えてみると、宝くじやナンバーズなどは何の楽しみもないであろう。パチンコやルーレットなども同様である。競馬や競輪などは、F1や陸上競技と比較して考えると、観戦の楽しみはあるのであろう。また、ブリッジや麻雀はギャンブルとしてではなく、ゲームとしての面白さがある。
     そもそもすべてのスポーツ・ゲームなど勝敗が決するものには、賭けをすることができる。賭けなくてもやりたいと思うものに関しては、ギャンブル以外の面白さ、つまりゲーム性が存在すると考えられる。
     オンライン対戦に多くの人が集まるのは、麻雀が単なるギャンブルでないことの証左である。オンライン対戦型の麻雀は、金を賭けてやる性質のものではない。

     あまり分類されないのであるが、麻雀はボードゲーム(卓上ゲーム)の範疇であるといえる。囲碁・将棋・チェス・オセロ・バックギャモン・モノポリーなどと同じ範疇である。囲碁・将棋・チェスなどと麻雀の決定的な違いは何であろうか?

     それは偶然性であろう。囲碁・将棋・チェスには偶然性はない。バックギャモンとモノポリーにはダイス(骰子)があるので偶然性がある。
     囲碁・将棋・チェスはほぼ完全な実力の世界と言われている。しかし、この世界にもツキがあると言う人もいる。試合中に普段では思いもよらぬ思念が入りこみ、とんでもない手を打ってしまう、いわゆる魔が差すと言われるようなこともあるそうである。
     しかし、コマや石が隠れている訳ではないのである。多くのカード(トランプ)ゲームは手に配られるカードに偶然性があり、自分から見えない部分が多くあり、それを類推しあうことを楽しむゲームである。麻雀もこれと同様である。
     競技麻雀という言葉がある。競技麻雀とは、ノーレートで偶然性が少ないルールの麻雀のことである。しかし競技囲碁、競技将棋、はたまた競技チンチロリン、競技ビンゴという言葉は存在しない。すなわち他ゲームにはない「競技」という冠称が存在するところに、麻雀の大きな特徴がある。

     麻雀をルールを変えることにより、囲碁や将棋に近いゲームに変えることもできる。例えば、麻雀において全牌オープンをやるのである。山を積むところから全牌を表にし、山の下の牌(下山)が見えないということであれば、重ねずに並べて置く。配牌された牌は最初からオープンにする。つまり、このまま行けば、何巡後に誰が何を自摸るのか、全員が判ってしまうのである。副露することにより、自摸する牌を変えることができる。また、通常はわざと放銃しないのであろうが、差込が日常茶飯事になる。このようなルールにおいては、配牌直後より誰が何巡目で何を和がるのかをまず読み、何を切ったら、誰が鳴けるのか、それはその人にとって鳴くメリットがあるのか、鳴いたらその後の全員の自摸牌がどうなって手持ち牌がどうなるのかということを考えることとなる。これは、囲碁や将棋に極めて似たゲームであろう。一手考えるのに、数時間の長考を要することもあろう。「先が判ってしまったら面白くない筈」と思う人がいたら、それは認識が間違っていると思う。自分が用いる最良の選択をしても、自分が和がれなく、かつ、自分が放銃してしまうということが判ったら、誰に放銃するのが得か、いかに安く放銃するか、という点がポイントになってくる。また、高め・安めがある聴牌に対して安めの病牌を出したとしても、必ずしもその人がロンするとは限らないのである。誰がどういう目的でどういう動きをするかによっては、絶対的必然性による先読みはしきれないのである。この麻雀だと和了は非常に少ないと思われる。そうなると、ノー聴罰符が勝敗を決めることになる。他人の自摸による和了を邪魔するのは簡単であろうが、そのために自分が聴牌できないとなると、和了見込み者以外の3人の腹の探り合いになる。1人が聴牌して自摸で和了することが判ったら、「5巡後に下家が鳴けば対面が自摸和がることはなくなる、その前巡に自分が鳴けば対面の和がりはなくなる。この2人のどちらも鳴かなければ対面は和了してしまう。しかし上家が対面いじめのために五萬を出せば、自分がチーして和了妨害できる。今、1500点差で対面がトップだから、上家が五萬を出す可能性が高い」などと読むのである。4人の間の非常に知的で高度な駆け引きを楽しめると思う。

     私自身は、麻雀をギャンブルではなく、知的ゲームとして捉えている。
     いかに高く早く和了形を作ることができるか、いかに他家の動きを察知して他家に放銃しないように振る舞えるか、局進行や点数状況に応じていかにうまく立ち回ることができるか、と言った面に麻雀の面白さを感じる。

     「麻雀はギャンブルではない」としたいのが私の本望であるが、現時点において麻雀は卓上ゲーム・ボードゲームという範疇よりも、ギャンブルの範疇に括られることが多い。
     各種の麻雀団体・連盟なども、競技麻雀を志向している。世間の認識は、「将棋のプロ」と言えば一目置かれるが、「麻雀のプロ」と言っても余り高い評価を得られないものであり、このステレオタイプを打破するために、様々な活動を行っている。
     私は個人として、麻雀をより知的なゲームとして現世の人ばかりでなく、未来も含めて多くの人に楽しんでもらいたいと思う。そのために、私にできることは、「客観的・論理的・定量的な実戦データに基づく戦略的麻雀研究」である。自然科学の手法を使って、雀力を上げる試みである。
     これがメインなのであるが、この目的を阻害するものに関して、私はしばしば攻撃的になる。
     1つはオカルトであり、もう1つはギャンブル麻雀である。
     オカルト雀士が大勢を占めている間は、麻雀が知的ゲームとしての世間的認知されることはないであろう。
     また「ギャンブル麻雀」とは、インフレルールと言われる、割れ目や赤ドラや宣言ドラ、その他特殊ドラに因るものが多い。また、偶然役を廃すればギャンブル麻雀にならないかと言うとそうでもない。槓ばかりしてドラを増やすことはギャンブル麻雀であるし、危険牌を抑えずに切りまくることもギャンブル麻雀であるし、四副露して裸単騎で守れない体制を採るというような打ち方もギャンブル麻雀である。

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